2010夏の思い出第3段「沖縄」その2 8月15日は、いろいろな思いが交差する日 | てるてるの小屋

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2日目の8月15日は、日本の敗戦の日。いろいろな思いが交差する日でありますが、ここ沖縄にとってはどうなんでしょう。もう占領下にあって、でも、組織的な戦闘はないものの、局地的な戦闘、組織を失った軍隊がどう凶暴になるか(住民に対して)の事例もあちこちで、そして、あちこちで敵を恐れさまよう兵士と住民・・・。
 
那覇のバスターミナルへ行って、まずは「糸満行き」のバスを探さなくっちゃ。
乗り場を見つけて、ベンチに腰をおろして待っていたら、乗る予定のバスは素通り?!
ああ、前から存在感のない男だとは思っておりましたが、無視されるとは・・・。三木監督の「亀は・・・」の主人公かい?!
 
地団太踏んでいてもしょうがないので、次のバスを探したら、あった、「糸満行き」のバスが。10分遅れくらいで出発です。
でも、なんか変だ。30分くらいで着くはずなのに・・・。
地図を見てみると、げげっ、ゴールは糸満バスターミナルだけど、すごく迂回してる!
結局たっぷり時間をかけて、糸満バスターミナルに到着。ここから、乗り換えです。
右往左往していたら、バスターミナルの人が、「どこ行くの?」。
「『ひめゆりの塔』行きたいんですが・・・」と、泣きべそかきながら言うと、「すぐ出るよ」、そのバスの運転手さんでした。
 
「ひめゆりの塔」のバス停で降りて、次のバスの時間を確認。なにしろ1時間に1本です。
 
「ひめゆりの塔」というのは、伊原第三外科壕というガマ(洞窟)に建てられた碑。
隣接して、「ひめゆり平和祈念資料館」があります。
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「ひめゆり部隊」とは、「ひめゆり学徒隊」の通称。
名前の由来は、沖縄師範学校女子部(「乙姫」)と沖縄県立第一高等女学校(「白百合」)が堂々となり、あわせて「姫百合」という名称になったようです。
沖縄戦では、32軍という守備隊が投入され、米軍を迎え撃つ態勢を組んでいたのですが、最精鋭部隊の第9師団が引き抜かれてしまいます。
その穴埋めとして、本土ではない徴兵年齢に達しない17歳以上の男子の全員非常召集が行われ、それ以下の少年も「鉄血勤皇隊」「通信隊」として学徒動員となり、女子も看護訓練によって女子学徒隊が作られました。
 
米軍の沖縄上陸を目前に控えた、1945年3月23日に、生徒222人と引率教師18人の合計240人からなる「ひめゆり学徒隊」が沖縄陸軍病院の看護要員として動員されました。
彼女たちは、軍国少女だったので、国を守り敵と戦う決意は固かったのですが、後方で「赤十字」の旗を掲げた安全な場所で、兵隊さんのお世話をするくらいの気持ちであったようで、学用品などを持参したりしておりました。ところが、現実は「赤十字」どころか、まさに戦場の中であり、米軍の上陸南下に伴い死傷者が激増し、学徒たちは、後送されてくる負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われ、仮眠をとる間もなくなっていきます。敵の砲撃で死傷する生徒たちも出てきました。
5月下旬には、日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かい、ほとんど医療器具、薬品がない中、分散してガマの中に潜みました。
ところが、6月18日に突然解散命令が出され、壕を追われます。彼女たちは米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、19日以降の約1週間に100名を超える多数の犠牲(死亡者の約8割)を出しました。
最終的には240人のうち、136人が死亡(14人が集団自決)しました。
とくに、伊原第三外科壕では、18日の夜にお別れ会をし、校歌や「ふるさと」を合唱し、翌日避難しようとした時には、すでに壕が米軍に包囲されていました。
米軍から投降の呼びかけがあったのですが、「降伏、捕虜になるな」との教えのもと、沈黙の後、米軍によって投げ込まれたガス弾で最大の犠牲を出しました。4人の教師と38人の生徒がここで亡くなり、脱出した教師1人生徒3人も消息不明。生き残った「ひめゆり」はわずか5人とか。
このガマのところに、「ひめゆりの塔」が作られました。
 
資料館の中に再現された、伊原第三外科壕のガマを見ると、出入り口が見上げるような高いとこにあります。
生き残った「ひめゆり」の人たちは、生き残ってしまったことで自分を責め、はじめは沈黙を守っていたようですが、「生き残った自分たちが語り伝えなければ」との思いで、今でも語り部としてがんばっているようです。
それは、小説となり、映画化された「ひめゆりの塔」の存在があります。
沖縄の人が書いたこの小説は、関係者からの取材のない、フィクションであり、「ひめゆり部隊」なるものが沖縄戦の象徴として有名になり、映画化までされるにいたって、フィクションの話がどんどん独り歩きしていることに、「ひめゆり」の人たちは心を痛めていました。
33回忌をひとつの節目として、彼女たちは語り出します。そして、この資料館が出来上がりました。資料館には、その人たちがその当時の状況を語り、また手記として残しているものが展示、放映されています。まさに、思いが凝縮した資料館です。
彼女たちの証言集を読むと、生々しく、現地の悲惨な状況、兵士が、友が傷つき死んでいった姿が語られています。
 
資料館の中で、静かに近づいてきて、その当時の状況を語り出す老婦人は、その語り部の方でした。こんなことが二度とあってはならない、という気持ちが伝わってきて、頭が下がります。
資料館にこの沖縄戦で亡くなった「ひめゆり」の生徒さん、先生の写真と、どこで亡くなったかが記載されています。
 
ずーんと重い気持ちを引きずって、バス停に行ったら、出た後・・・。
1時間日向ぼっこしていようかとふと思ったのですが、その後の予定を考えると、緊急事態かもしんない。
見学者のために、待機しているタクシーの運転手に話をしたら、とりあえず次の目的地である平和祈念公園まで、送ってもらって、またやらかさないように、帰りのタクシーの手配をしました。
 
平和祈念公園は、日本軍が沖縄戦で最後の抵抗をした「摩文仁(まぶに)の丘」周辺の広大な公園です。
 
前回訪れられなかった、平和祈念資料館へ。
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沖縄の歴史、戦争に向けた流れ、沖縄戦の資料映像、ガマの様子を再現したもの、占領当時の状況、コザ暴動と本土復帰運動など、盛りだくさんの資料館です。
資料館の中に、沖縄の人たちによる証言集が展示されています。
日本軍による住民虐殺、集団自決、などが生々しく証言されています。
 
なんで、沖縄が戦場になったのか、なぜ非戦闘員も含め大量の戦死者が出たのか・・・?
「琉球王国」への侵略、武力を背景にした日本への編入。沖縄の人たちの独特の姓を日本風に改めさせる、方言の禁止?!
日本政府は、関西人に「関西弁使うな!」って言うんかい!
本土決戦のための時間稼ぎのために、あえて住民を戦争に巻き込む戦略をとったこと。
降伏を許さず、捕虜となるなら死ね!との徹底した教育。
沖縄の人たちへの差別と、住民へのスパイ視。そのことが住民虐殺につながったりしています。
軍隊というものは、住民のためにあるのではないのだということを如実に示しています。
 
海に向かって、「平和の火」、そこから放射状に並ぶ、「平和の礎(いしじ)」。沖縄戦で亡くなった人たちが、敵・味方ともに墓碑として、国籍、軍人、民間人の区別なく、名前が刻まれています。
「さとうきび畑」の舞台となったこの土地から、海を眺めると、かつてこの海が米軍の艦艇に覆い尽くされ、追い詰められた人たちが、砲撃に倒れ、自決を強いられ、断崖から身を投げたのだという事実とあまりにかけ離れた平和な光景にとても違和感を感じます。
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沖縄県戦没者慰霊のモニュメントの後方が、最後の激戦地となった「摩文仁の丘」です。
「沖縄平和祈念堂」の後ろには入道雲。
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これは、「もこもこ雲」かな?
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待ち合わせのタクシーの運転手さんに、「沖縄の人にとって、815日って、どういう思いなんですか?」と訊きました。
「やっぱり、この日は大勢ここに集まりますよ。平和の礎に、墓参りですね」との話。
「でも、今あまり来ていないでしょ。ちょうど興南高校が甲子園で試合やってるんですよ」
タクシーのラジオからは、興南高校が追加点を挙げた実況が流れてきました。
 
沖縄戦の話は、前回の沖縄の旅に書きました。参考に。
 http://blogs.yahoo.co.jp/takateru13/30978701.html 2010沖縄の旅3日目(2)語り続けていかなくてはならないこと
 
少し休憩です。