①牛頭天王が磐座に降り立ったとする伝承は、各地に存在する。豊受大神と天照大神を祀る籠神社奥宮の磐座二座も、熊野権現が天降る神倉神社のゴトビキ岩・水徳の神が降り立つ比叡山系牛尾山山頂の金大巌(こがねのおおいわ)も、牛頭天王が姿を変えて降臨した磐座と見てよかろう。
〔籠神社奥宮の眞名井(まない)神社〕(宮津市)、社殿背後の左右に磐座二座が鎮座して、右側の磐座主座(本宮)祭神は豊受大神、左の磐座西座(西宮)祭神は天照大神の神霊が宿るとされる。
社伝によると、外宮に祀られている豊受大神は、神代には眞名井原に鎮座していたという。その地は、匏宮(よさのみや)、与佐宮、吉佐宮、与謝宮、元伊勢と呼ばれてきた。
崇神天皇の御代、天照大神が大倭笠縫邑から現社地に鎮座して与佐宮と呼ばれ、四年後の垂仁天皇御代、伊勢国五十鈴の川上に遷座したとされる。
〔『神道集』熊野権現の事と「熊野権現垂迹縁起」〕
その昔、ある御仁が唐の霊山から天台山にある王子晋という仙人の旧跡を慕い、日本の鎮西豊前国英彦山に天降りなさった。その形は、高さ三尺六寸の八角形の水晶石であった。
その後、あちこちに在所を求めて長い年月を送った後、熊野権現として顕れなさった。神武天皇の治世四十三年のことである。彼の権現は天照大神の頃の人であるが、示現された地は全国に広く行き渡っている。
一、天竺のマガダ国大王は、妃たちが起こした惨事を嘆いて王位も国も捨て、「我が身はどこへ行けばよいのか決めかねている。この剣を投げて、落ちた所に行こう」と言って五本の剣を北に向けて投げ、空飛ぶ黄金の車に乗ってこれを追いかけた。
五本の剣は天竺や中国には留まらずに、小さな小さな日本秋津島に飛んで行き、一本は紀伊国牟婁郡神蔵(神倉山、熊野速玉大社の旧社地)、一本は筑紫の英彦山、一本は陸奥の中宮山、一本は淡路の和(遊鶴羽峰)、残る一本は伯耆大山に留まった。大王の車は、五本の剣を追いかけて英彦山に到った。そこから各地を転々として、最後は第一の剣に従って紀伊国牟婁郡(熊野)に留まった。大王はこの国に来て、七〇〇〇年間、姿を顕さなかった。
一、唐の天台山の地主神・王子信が鎮西英彦山に天降った。その者は高さ三尺六寸で八角の水晶形をしていた。ついで伊予の石鎚峰から淡路の遊鶴羽峰に渡り、さらに熊野の神倉峰に降った。
〔神倉神社〕(新宮市)、神倉山(標高一二〇㍍)のゴトビキ岩(琴引岩)を御神体として、天照大神、高倉司を祀る。「熊野権現の事」や「熊野権現垂迹縁起」では、伊弉諾期に天台山から飛来する天竺マガダ国大王が神武天皇御世に熊野権現として、初めて垂迹した山とされるが、現在は熊野速玉大社の摂社。大社の由緒によると、一二八年の創建であるという。
「神武紀」、「(磐余彦、)熊野の神邑に到り、且ち天磐盾(神倉山)に登る」
【地元の伝説】、「神武天皇は熊野の賊を退治できたことで、神倉山に登って十握剣(一説では布津御魂)を捧げ持ち、天照大神(一説では高皇産霊)にお礼の言葉を申し述べた」
☆王子信については、天台山から飛来する山王として厚く尊敬され、中国はもとより奈良・平安朝の文人らにもなじみ深い人物だった。
②比叡山で上古から崇められてきた祭神は、牛尾山山頂の金大巌に降り立つ水徳の神と伝わる。
天霊石八王子権現秘録、「この大岩に天降り玉う水徳の神にまします。以て金の大岩と名く」
彼こそ、マガダ国大王家に生まれて、幅広い学問や仏法の真髄を習得後、天台山に渡って山王、ついで出雲に飛来して、大穴持、大国主、牛頭天王、仏陀ゴータマ、次に向津姫(天照大御神)に婿入りした皇太神時代には熊野櫛御気野や豊受(天照)皇太神、邪馬台国では天照大神、豊受大神、倭大物主、三輪山奥津磐座の主と称した御仁、つまり外宮の伊勢大神に相違ない。
③山城の感神院祇園社(八坂神社の前身)や播磨の広峰神社も、こうした史実、伝承・祭祀に基づきながら牛頭天王を奉斎し、日枝神社もこの御仁を山王権現として奉ってきたのであろう。
〔広峰神社〕(姫路市)、主祭神は、牛頭天王の素戔嗚尊、その児五十猛命。広峰山山頂に鎮座して、全国の牛頭天王を祀る総本山と主張してきた。神仏分離令以前は、牛頭天王だけを祭祀。
〔八坂神社〕(京都市東山区)、中御座に牛頭天王として素戔嗚命、東御座に櫛稲田姫命を祀る。こちらも、全国にある牛頭天王社の総本山と主張してきた。神仏分離令以前は、感神院、祇園社、祇園天神、祇園牛頭天王社と称して、本地仏として薬師如来を祀ってきた。
神社の創祀については諸説がある。六五六年、高麗より来朝した使節が新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を八坂郷に勧請したと伝わる。明治の神仏分離令により、感神院は廃寺に追い込まれた。
④八坂神社の祭礼である京都祇園祭(明治までは祇園御霊会)の起源は、九世紀に遡る。当時の平安京では、マラリヤ・天然痘・インフルエンザ・赤痢・麻疹などの伝染病が大流行し、多くの人々が死に絶えた。その原因が無実の罪でこの世を去った早良親王ら怨霊の仕業とされたことで、朝廷は神泉苑で疫神や死者の怨霊を鎮める御霊会を行った。
八六九年にも、牛頭天王を祀って御霊会をとり行った。これが御霊会の始まりとされる。
一説によると、八七六年、播磨国広峰の牛頭天王が八坂神社の地に遷座して祇園社として祀られ、感神院(比叡山延暦寺の末寺)と号したという。祇園御霊会は、この祇園社に引き継がれた。
疫病の大流行は、「崇神紀」にも記載されている。こ時の疫病も、神頼みで漸く沈静化した。
「五年に、国内に疾疫多くして、民死亡れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす」、
「大田田根子を以て、大物主大神を祭る主とす。又、長尾市を以て、倭の大国魂神を祭る主とす。・・是に疫病始めてやみて、国内漸にしずまりぬ」
新型コロナウィルスの感染におびえる昨今、ひたすら家に閉じこもって神仏にすがりつつ、
六根清浄 六根清浄 真実一路の旅なれど、真実鈴振り思い出す