径38~38.3cm

 

 

 2019年5月に漆絵盆を入手した(註1)。


 初見の時では、松樹と下部の植物の描写(註2)から、天平時代の表現様式によって制作された模倣作品だと思った。また、天平時代の文様として見慣れない小庵は、この盆の制作者個人による独創的なものと感じた。

 

 

 

 

 

 

しかし時間をかけてつぶさに観察しても、なぜか本品が模倣作品であるという決定的な判断が下せる箇所が見当たらない。

 

 筆の払いを見せる多数の細やかな描線は、重なっていない。この小庵の巧みな描線の画技に、模倣作品としての違和感を覚えた。

それどころか熟練した筆致で描かれた風になびく鳳凰の尾の出来栄えや、僅かに曲がる極めて繊細な描線の足と足首の描き方。霊獣の的確な描写および描線、流水を用いて前足を水面に隠す表現のオリジナル性、それに続いて同じくオリジナル性を感じさせる全体の的確な描写に対して幾何学風に描く角、尾、太腿部分の波の表現(註3)。そして時代感をもつ、天平時代の表現様式による蓮弁や蓮花などが描かれた盆裏。

以上の点は、本品が模倣作品ではなく、奈良時代制作の可能性を考えさせた。

 

幅(約)4cm

 

幅7.5cm

 

 

 

 

 その後、本品と図様が酷似する作品の現存を確認した。吉田包春(註4)が制作した正倉院模造宝物の一つ密陀絵盆・山水図である。

 

吉田包春作 正倉院模造宝物 密陀絵盆・山水図(註5)

 

 あまりにも本品と包春が制作した密陀絵盆山水図の図様が似るので、そのため本品は、包春が密陀絵盆山水図を制作するに際して粉本に用いた作品ではないかと予見した。それとともに、本品は正倉院から流出したものだと思った。

しかし同じ図様の密陀絵盆は、正倉院に密陀絵盆第6号として伝存していた。

すると本品は一体何なのであろうか。

 

 

 正倉院密陀絵盆第6号(註6)

 

 正倉院が所蔵する計17枚の密陀絵盆の状態が悪い理由は、使用されていたためだろう。したがって、使用を目的として、古くは同じ図様の盆が数多く存在していたのではないだろうか。

本品は、文様の摩耗が極めて少なく、使用されてはいない。

 

 

 本品の白地は、光の反射によって独特の艶めきを放つ。それは宮内庁のホームページに解説されている「全面に油を塗布している。」に基づくものと思われる。クリック⇒宮内庁 正倉院宝物詳細画面

 

 

 正倉院密陀絵盆第1号に描かれた樹々や岩などの描写・描線は、本品と深い共通性をもつ。また、本品と正倉院密陀絵盆における黄土色の顔料および白地の色合の違いは、未使用品と使用品の差によるものと考えられる。クリック⇒宮内庁 正倉院宝物詳細画面

 

 

 

 

左から密陀絵盆第6号、本品、包春盆の松樹(註7)

 

 正倉院密陀絵盆第6号は、その状態によって、複雑に屈曲する松樹の枝ぶりの構成を明確に把握することができない(註8)。それに対して、本品と包春が制作した密陀絵盆の松樹の描写は、限りなく細部まで共通する。

 

(以下、包春が制作した密陀絵盆山水図は、包春盆と呼ぶ)

 

 同じく正倉院密陀絵盆第6号の鳳凰は、その状態により、鳳凰自体の確認が困難となる。それに対し、本品と包春盆に描かれた鳳凰は、シルエットの表現手法と細部の表現において、明らかに共通する。

 

 

 

左から密陀絵盆第6号、本品、包春盆の同じ部分の文様(註9)

 

 松樹の根元に描かれた植物の幹の描写は、本品と包春盆において一致する。しかし、密陀絵盆第6号とは一致しない。

 

摩耗して見え難いけれども(註10)、松樹の根元の近くに描かれた岩皺(平行しつつ、ほぼ直角に曲がる)が、本品と包春盆において一致する。

それに対して、密陀絵盆第6号では、その部分が修理されているために確認することができない。

 

 

 

本品と包春盆の部分(註11)

 

 本品と包春盆は、松樹の根元の極めて小さな塗り残しの箇所まで共通する。

さらに一番下の丸で囲んだ部分は、さきほどと同じく、修理部分のために密陀絵盆第6号では確認することができない。それにもかかわらず本品と包春盆は、その細部の文様までもが一致する。

 

 

 

本品部分と正倉院密陀絵盆下絵絵巻山水図の部分(註12)

 

 本品の小庵に沿い立つ枯樹の部分の描写は、包春が描き起した正倉院密陀絵盆下絵絵巻の山水図と一致する。しかし包春盆とは一致しない。また正倉院密陀絵盆第6号では状態が悪く、その部分を確認することができない。

 

 

 

 

正倉院密陀絵盆第6号の小庵(註13)

 

左から本品、包春が描き起した正倉院密陀絵盆下絵絵巻山水図、包春盆それぞれの小庵(註14)

 

 密陀絵盆第6号では、修理部分のために、小庵の下に描かれた波のような幾何学風の文様を把握することができない。しかし、その修理部分の文様は、本品と下絵絵巻と包春盆の三作品において、完全に一致する。

 

 

 

 

左から、正倉院密陀絵盆第6号、本品、下絵絵巻、包春盆(註15)

 

 正倉院密陀絵盆第6号では、3時の位置に描かれた枯木の部分が修理されており、根元の枝の構成が把握できない。

しかし、本品と下絵絵巻と包春盆においては、その根元の枝の構成が一致する。

また、本品と下絵絵巻と包春盆においては、岩の部分から盆の縁にかけて余白が設けてあるが、正倉院盆ではその余白が見られない。

 

 

 

 これらの共通点は、偶然の一致とは到底考えられない。つまりそれらの共通点は、下絵絵巻と包春盆の制作において、本品を粉本にしなければ、指摘した文様が一致して成立しない。

特にそれは、松樹の根元の植物の幹の描写をはじめとして、それにつづき松樹の根元の文様の細部、小庵に沿い立つ枯樹の描写、小庵下に描かれた複雑な幾何学風の文様の一致において、決定的となる。

 

ゆえに、本品と密陀絵盆第6号の両作品を粉本にすれば、包春は、下絵絵巻(山水図)や包春盆を制作することができる。しかし密陀絵盆第6号のみでは、包春は下絵絵巻や包春盆を制作することができない。

 

したがって、指摘した文様の一致は、吉田包春が密陀絵盆山水図を制作するに際し、粉本に用いた作品が、正倉院密陀絵盆第6号だけでなく、本品も粉本とした確実な因子になる。

 

それゆえ包春盆は、正倉院模造宝物であるから、その粉本となった本品は、昭和3年(註4)頃まで正倉院に伝来した密陀絵盆であったと言わざるを得ない。それに伴い、本品の制作は奈良時代と考えられる。

 

 根元が朽ちた銘木の赤松や小庵、岩、植物など、多くの題材が描かれた本品。この複雑な描写において、写し崩れや構図構成の破綻が見当たることなく、なおかつ、それぞれの画題が天平時代独自の表現をもって描き上げられ、しかも、卓越した鳳凰や霊獣の描写とともに、各画題の均衡を正確に保持して、すべての描写が完成する。

それゆえに特有の格調を帯び、時代感を有した本品は、後世の模倣作品ではなく、奈良時代制作を強く思わせる。

 

 

 本品に限って使用されていない原因は、使用を目的とした正倉院の密陀絵盆に対して、本品は使用を目的に制作されたものではなく、宝物として、唐(中国)から日本にもたらされたためではないかと思う。そのために本品盆裏と、正倉院密陀絵盆裏(計17枚)との出来栄えおよび質感や顔料の僅差を感じさせるのではないだろうか(註16)。いわば質感や顔料の僅差は、非常に作行きが近いけれども釉薬に若干の相違を見せる唐三彩と奈良三彩(正倉院三彩)の関係性にも通じた事柄と言える。

したがって唐三彩と奈良三彩の関係性と同様に、奈良時代制作の正倉院密陀絵盆に対し、本品は唐時代制作の密陀絵盆に位置するものと思われる。

 

 以上の一考察から、本品は、吉田包春の正倉院模造宝物制作を発端として、何らかの手違いが生じ、近代の管理による記載なくして、昭和3年前後に同院から流出したものと考えられる。(たかたのぼる)

 

 


(註1)この丸盆は、毎週水曜日に広島市内で行われる古物市場に出品されたもの。


(註2)主に、奈良時代制作の絵因果経に描かれた樹々の表現を想起させる松樹の枝や葉の描写と、正倉院のろうけち染めを連想させる植物の葉の中心部を塗り残す表現方法から。

(註3)また霊獣の後ろ足の輪郭線をそのまま延長させて、波を表現する描線の表現特徴は、平安時代制作の鳥獣人物戯画を想起させた。しかし鳥獣戯画において、この表現が確認できないので、他作品との記憶違いと思われる。


(註4)吉田包春。昭和3年、50歳のときに宮内省から正倉院宝物の模造を命じられ、兄の立斎・久斎とともに正倉院宝物の修理・模造に携わる。(調布市 市政情報 広報 プレスリリース 平成28年度より抜粋)


(註5)画像は、国立大学法人奈良女子大学/奈良女子高等師範学校の教育標本 正倉院模造宝物より転載した。

 

(註6)正倉院密陀絵盆第6号の画像は、「正倉院漆工」昭和50年発行より転載した。

 

(註7)註5・6と同じ

(註8)明治時代に正倉院は、東大寺から内務省の管轄になったので、それ以降に現在の状態に変容したとは考え難い。

 

(註9)註5・6と同じ

 

(註10)

 

(註11)註5・6と同じ

 

(註12)正倉院密陀絵盆下絵絵巻山水図の部分の画像は、国立大学法人奈良女子大学/奈良女子高等師範学校の教育標本 正倉院模造宝物より転載した。

 

(註13)註6と同じ

 

(註14)註5・12と同じ

 

(註15)註5・6・12と同じ

 

(註16)質感の僅差は、未使用品と使用品との条件の違いが、大いに関係することを一応、前提として。

 

 

 

 

「新たな正倉院伝来密陀絵盆の発見の可能性について」(追記)

 正倉院の密陀絵盆は、状態が悪いため、盆に描かれた文様の細部を、明確には把握できない部分がある。しかし、吉田包春が書き起こした正倉院密陀絵盆下絵絵巻を見ると、原本である正倉院密陀絵盆の文様が不鮮明であるにもかかわらず、細部の文様が割としっかり描き込まれた箇所が見受けられる。

そこで、本品と正倉院密陀絵盆(山水図)と下絵絵巻(山水図)と包春盆との文様の比較の過程を勘案すると、本品のみが正倉院に伝来した唯一の未使用の密陀絵盆であり、この作品だけが流出したとは考えにくい。

すなわち本品以外にも、唐からの宝物であった使用されていない密陀絵盆が、昭和3年以降に同院から多数流出しているのではないかと思う。

そうして、その内の一枚(本品)が、2019年に見つかったのではないだろうか。

それゆえ正倉院密陀絵盆のいずれかの作品と、同じ文様が卓越した描写で描かれ、本品と同種の質感をもった未使用の密陀絵盆が、今後、民間から新たに見つかる可能性がある。その密陀絵盆は唐時代制作の可能性をもつ。(たかたのぼる)