二本松少年隊は戊辰戦争に出陣した12歳から17歳までの二本松藩少年藩士たちです



慶応4年に始まった戊辰戦争は鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城、宇都宮戦争と北上を続け、二本松藩は会津藩、仙台藩とともに白河城に出陣するものの戦況は散々たるものでした
新政府軍はついに二本松へと迫ります
二本松藩は兵力を補うため17歳までの出陣を許可しますが、「入れ年」という2歳さばを読む制度のため実際は15歳までの少年の出陣が許されたことになります
一方、少年たちも国のため出陣の嘆願し、藩は15歳までの出陣の許可をしましたが「入れ年」にするとわずか13歳の少年です

大壇口古戦場



隊長木村銃太郎が率いる少年隊25名は大砲を用意し大壇口に出陣します
新政府軍は目前に迫り、銃太郎は敵を十分引き寄せてから「撃て!」と命令します
大砲の弾は敵の頭上で炸裂し、敵は民家や山林に逃げ込みました
少年隊は更に民家に大砲を命中させ敵を混乱させますが、新式銃を備え近代戦法をとる新政府軍に徐々に圧倒れ、ついには死傷者が出始めます
隊長の銃太郎は退却を命じますが敵の銃弾を腰に受け、副隊長である二階堂衛守に首を斬らせ絶命いたします
少年らは二階堂に従い大隣寺へ退散しますが、二階堂もここで戦士しました
隊長、副隊長を失った彼らは方々に逃げ散るのですが幾多の少年らは命を落とすのです

大隣寺

こちらの大隣寺は二本松藩主、丹羽家歴代の菩提寺、丹羽家二代長重が初代長秀の菩提を弔うため白川に建立したのが始まりで、三代光重の時代に二本松に移封、大隣寺も移されました。
その後移転をし現在の地に落ち着いたのは寛文7年です。一時は藩校とし て、戊辰戦争後は藩主の謹慎所にもあてられた本堂は当時を偲ばせています
そして、見所はやはり二本松少年隊の慰霊碑でしょう



隊長木村銃太郎、副隊長二階堂衛守をはじめとする門下生16基の慰霊碑が並び、爺!!が訪れた日もお線香が絶えませんでした

二本松少年隊に残されたエピソードをいくつかご紹介します
①上崎鉄蔵(16)を母は出陣の見送りで「行ってこいよ」と声をかけると、鉄蔵は「今日は、『行け』でいいのです」と微笑み戦場に向かったそうです
死を覚悟しての出陣だったのですね
②岡山篤次郎(13)は母に頼んで着物に「二本松藩士岡山篤次郎十三 歳」と書いて貰い出陣しました
それは母が屍を探しやすいようにとの理由です
③成田才次郎(14)は父から「敵を斬ってはならぬただ一筋に突け」と教えられて出陣しました
この突きは二本松藩伝統の剣法で、ケガを負った才次郎は城へ向かう途中に長州の将、白井小四郎と出会い一瞬の隙を狙い突き殺したといいます

霞ガ城



二本松城は室町時代中期に畠山氏が築城、居城としました
その後は蒲生氏、加藤氏と城主が変わり、寛永20年丹羽光重が白河より十万七千石で二本松に入ると幕府の許可を得て築城、以後廃藩まで丹羽氏が11代続きます
山麓に築いた山城で、二の丸、本丸と険しい坂を登っていかなければなりません
霞ガ城から見る安達太良山です



この美しい景色の中で悲劇は起こったのです
国を守ろうとした少年たちは今も静かに眠っているのです
           



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