我が国の総理大臣が以前言った『美しい国』とか『美しい憲法』とか、この場合の『美しい』とはどのようなものなのでしょうか?
今の国政を見ていると、選挙の事しか考えていないような言動をする議員の姿に、どこにも未来に繋がる『美しさ』は微塵も感じない。
むしろ『美しい国』『美しく憲法』を口にしている事に嫌悪感すら持ってしまう。
最近の話題でいえば、年金の件。
老後を公的年金で100%賄えるなんて、そもそも自分は思っていないし、そう教えられていた。
「厚生年金に加入していた」夫婦の平均的な支出のモデルケースで、年金支給時(65歳)時点で“貯蓄0円”、かつ95歳まで生きると想定して算定。
娯楽・遊興を楽しみながら過ごす豊かな生活には2000万円の不足が考えられる。
(金融庁のWGで1500~3000万円の不足という試算が出ていた事も発覚)
つまり、支給額が少なくなる国民年金加入者であったり、労働形態の40%を占めると云われる非正規社員で、さらに年金未加入となれば、いったいどうなるのか…
そう考えると、政府が意図する所と違う、悪い印象しかないから受け取らない、無かった事にする…という姿勢が非常に姑息で、むしろ悪印象に映る。
なぜ、もう少しタイプ別のモデルケースを提示し、政府としてはこう対処していきたい…みたいな姿勢は示せなかったのか?
しかも、今後、若い世代ほど受け取れる年金が目減りするであろう事にどう対処するか、
国としてどう舵取りするか、どう考えているかを国会なり予算委員会なりでの議論する事、その内容が国民の知りたいところだと思うのだが?
今のままでは『消費税は上げます。老後の蓄えはしっかりやって下さい。でも、景気を良くする為にはお金はどんどん使って下さい。』
これ程ベクトルの違う話、こなせるのは限定的な人だけじゃなかろうか?
イージス・アショアの件にしても、直接的に日本を守る為ではなく、ハワイやグアムの米軍基地を守る事により、軍事同盟の観点で間接的に日本を守る・守ってもらえるから、イージス・アショアの立地を決めた。
だから、この場所じゃないといけないという、結果有りきの決定だったんじゃないか?と思えてしまう事も…
設置する上でのクリアランスを算定する為の、標高等の地形の数値も秋田・山口共に杜撰なもののようだしね…
何ともやっている事が『美しい』という言葉とは、どうやっても結びつかない気がしてならない。
そして、総理大臣が口にする『美しい国、日本』というフレーズに、戦争で亡くなった、写真でしか見た事のない祖父が生きた時代、軍国主義の時代を連想させる響きが交じっている気がして、違和感やヒタヒタと迫ってくるきな臭さを感じてならない。