時間の経過とともに、人の記憶そのものが風化していく事、それは避ける事は出来ないのでしょうね。悔しい話ですが…
また、口伝で後世に語り継ぐにも、時間の経過や伝わるまでに幾ほどの人が間に入ってきたか、その事で伝えるべき内容の確度は逓減するものです。
だからこそ、その時々に起きた事、回避の方法、新たに判っていく事実、これは記録として後世に残さないといけません。それが今を生きる私たちの務め。
でも、記録するなんて大それた事は出来ないからこそ、せめて365日の中の1日、その日の1分だけでも、被害に遭われた方々に思いを馳せる為、
今年はせんだい3.11メモリアル交流館にて献花、その後、屋上にて14:46の黙祷をさせて頂きました。
その交流館で目にした印象的一文。
『震災後、便宜上「瓦礫」と括られたモノは、以前は誰かしらの所有物であったはず…』
そんなんですよね…
あの時、瓦礫と呼ばれたモノは所有者の思い・記憶が詰まったモノであったはず。
それを不意に突きつけられた瞬間、荒れ果てた石巻の風景がフラッシュバック…
そして、今晩『コーヒーが冷めないうちに』のスピンオフ企画のラジオドラマを聴いていた間、もし2011年3月10日という日に戻れたら、もし2011年3月10日という日がパラレルワールドとして存在するならば、いったい自分は何をするだろうか…‥と考え込んでしまいました。
きっと、これからもこんな思いになるんでしょうね…