社会人リーグ 初期

前回の話で日大フェニックス篠竹監督がお亡くなりになられた時
良きライバルだった僕の親父は、すでに他界しておりました。
日本にアメフトを広げた立役者たちは、
遠い空の向うで 今の日本のアメフトをどう見ているのでしょう?
僕が社会人になる1990年は、
映画「バブルへGO!!」のようなバブル全盛期!
企業がアメフトに力を入れ始めた時期で
合併する前の大手都市銀行全てチームがあったぐらい。
それまで社会人リーグ戦は、学生公式戦の前座でした。
結局、10社ぐらいオファーをいただきましたが
一番悩んだのが「アサヒビール」さんです。
僕がまだ高校3年生の時、家族で甲子園ボウルを観戦しに行きました。
そこに親父と学生時代の戦友でQBをしていたSさんが誰かをつれて
僕らの前に座られました。
あとで聞くとその方は、アサヒビールの社長さんでした。
Sさんは、ビール関連の機械を海外から日本のメーカーに卸す会社の
社長をやられていたので大手ビール会社の社長さんとも交流がありました。
Sさんは、アサヒビール社長に社会人チームの
スポンサーになることをすすめていました。
アメフトがどういうものかを説明するため、甲子園ボウルに
招待していたわけです。
こんな裏話があって
僕が就職する1年前に京都大学で「怪物くん」と呼ばれていた
あの名QB東海さんもいました。(奥様は、自民党の議員)
Sさんの紹介やあの「怪物くん」とユニットを組みたいとも考えましたが
お断りすることにしました。
その後、アサヒビールは、
社会人日本一
ライスボウル優勝
と数々の栄冠を手にしていきます。
この成功を今度は”関西でも電工に勝てるチームを創りたい”と
※最初チーム名は、ワイルドジョー 1998年から チャレンジャーズ
その後、リクルーティングに力を入れ、今に至ります。
この時、Sさんからコーチのオファーをいただきましたが
まだまだ現役でプレイしたかったのでお断りしました。
2度もいいお話をいただいたのにほんと申し訳ないです。
そんなアサヒビールのお話を致しましたが
大学卒業後、アメフトでは就職せず、コンピューター開発会社を
選びプログラマーとして働き始め、一からチームを創ることを
決断しました。