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大村純忠による南蛮貿易は莫大な富を生みました。
その富が、純忠にとって経済的にも軍事的にも大きなバックアップとなったのは前回書きました。
このメリットが大きいだけに、その犠牲も多大なものがありました。
純忠は貿易を独占するためにも自ら洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となったことは有名です。
さらに家臣、領民にも改宗をさせ、天正2年(1574)には領内の社寺仏閣をことごとく焼き払ってしまいました。
その中には郡七山十坊という歴史ある寺が多くありました。
伝記には平安時代には既に存在していたものも多くあったと伝えられています。
これらは大村にとって当時としても貴重な遺産であったことでしょう。
見方によっては、同じ時期に近畿地方では比叡山焼き討ちが織田信長によって行われています。
一向宗の一揆もこの頃です。
戦国乱世は武士階級のように有力な寺も武力を持ち、その領内外に時に多大な影響力を持っていました。
僧侶らは本来の役割を忘れ、既得権益を持ちあらぬ方向へと活動を広げていたバックグラウンドがあったことも忘れてはいけません。
いずれにしても、当時の社寺仏閣は焼き払われました。
これにより得たものと失ったもの、どのような状況でどのような判断に至ったか、
それをそれぞれに評価し、学んでいかなければなりません。
追記すれば、純忠が大村へ来た時とは比べ物にならないくらいの権力をこの時には保持していたことがうかがえます。
貿易がもたらした力の大きさに驚かされます。
