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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

特にいま

理不尽な目に遭っているわけでも

逆境に立たされているわけでもないけれど

平尾誠二さんの

理不尽に勝つ

を読んでみた。

 

自分がいまそういう状況にいるわけではないので

感動したとか

力をもらったとか

そういう気持ちにはならなかったけど

ふだんぼくが考えていることと多くの点で意見が一致しているので

冷静に共感しながら読んだという感じ。

 

現代社会は

理不尽を払拭しようと躍起になっているけれども

人間が人間である以上

理不尽は決してなくならない。

 

理不尽を避け続けているせいで

子どもたちは逆境を越えられなくなっていて

へこたれたり折れたりしやすくなっている。

 

そういう状態でおとなになっているので

おとなも粘りがない。

 

ぼく自身も平尾さんと同じように

理不尽な目にも遭ってきたし

それを乗り越えて逞しくなったという実感はあるが

同時に

たまたま乗り越えられたからよかったものの

同じような目に遭って同じように対処したとしても

折れてしまったひともいるかもしれず

だとすると

ぼくとそのひととの違いは

たまたまの運だったといえるので

とてもじゃないけど

自分は優れているなんて言う気にはならない。

 

平尾さんだってそう考えていると思う。

 

平尾さんはまるで

こどもたちに理不尽を経験させて乗り越えさせて強くならせろ

と考えているように誤解してしまうひともいるかもしれないけれども

ぼくが思うに

平尾さんが言いたいのは

世の中から理不尽を無くそうとするのはいいことだし

これからもそれを理想にするべきだとは思うけれども

人間が人間である以上

どうしても理不尽なことは残ってしまうから

そういうときに負けないために

こどもの頃から少しずつでも理不尽に負けないすべを

身に着けさせるようにした方が良い

ということではないかな。

 

理不尽を避けさせるだけではなくて

理不尽があることを教えたうえでそれに立ち向かう方法も教えておく。

 

そういうことだと思う。

 

もっとも罪なことは

まるで世の中には理不尽なことなんてないかのように育ててきて

いよいよこどもが社会に出たときに

いきなり激しい理不尽に遭遇させることだと思う。

 

そんなふうに育てる親や教師は多いと思う。

 

世の中は理不尽だらけだよ。

 

だからといって

自分も理不尽に加担せよということではなくて

理不尽に負けずに生きられるように逞しくなろうぜ

っていうことだと思う。

 

主題とは少しずれるが

ラグビー選手もタックルに行くのが恐くも何ともないというわけではなくて

不安や恐怖心と自分が行かなければならないという気持ちが

ぎりぎりのところでせめぎ合って

行く

が上回ったところで身体を一歩前に動かせるかどうか

行く

というよりも退路が断たれて

もう行くしかない

と開き直れるかどうか

っていうのは

ぼくたちの日常生活でもおおいに励まされることだと思う。

 

それからもうひとつ平尾さんに共感したのは

失敗があったときに

他人のせいにして済ませるのではなく

自分にもやれることがあったのではないかと考えて次に活かす

という姿勢だ。

 

あんまり自分で背負い過ぎるのはよくないけど

それなりには自分に負荷をかけた方が

あとあとの自分のためになると思う。

 

この本は

平尾さんのひとがらが感じられて

平尾さんみたいなタイプのひとが好きな人には

力になるだろうな。

 

 

 

 

 

--理不尽に勝つ--

平尾誠二

内田樹さんがあちらこちらに寄せた文章を集めてまとめた1冊。

 

元はばらばらのテーマなのに

これだけの量をまとめると

ひとつの統一感が出てくる。

 

それは暗さ。

 

あとがきで内田さん自身が書いているように

時事問題や政治問題を扱うと暗くなっている。

 

内田さんを

左寄り

みたいに受け止めているひとも多いような気がするけれど

ぼくは極めてニュートラルなひとだと思っている。

 

いうなれば自由自在流。

 

内田さんは道場を開いているけれど

そこでやっているように

筋肉や関節のちょうどいい場所を見つけて

次にどのような動きも開始することができるのが

もっとも安定した姿勢らしい。

 

そういうのってかっこいいと思うし

それは身体的な姿勢だけじゃなくって

精神的な姿勢もそうでありたいと思う。

 

優秀な頭脳を持っているひとは

それを自分のためにではなくて

世の中のためにつかってほしい

ってそう思うよね。

 

優秀な頭脳に限らず

自分の持っている能力を

自分のために使って何が悪い

っていう考え方が主流になり過ぎている気がする。

 

そういうのも社会を生きづらく感じさせる要素になっているんじゃないかな。

 

敗戦により戦争を生き延びた時代の空気は

貧しいけれども活気に満ちていて

とにかく戦争はもうこりごりという強い意識のなか

戦争を回避するためには

他国に無茶を求められても甘んじて受け入れる

みたいなところがリアリティを持っていたが

戦争を生き延びられて心底ほっとした

という経験がないひとが大多数になったころから

この息苦しさが始まって

それが

子どもを産まない選択に結び付いているのではないか

っていうのも

たしかにそうかもしれないと感じた。

 

共感できる考え方が文章のあちらこちらに散らばっていた。

 

だから内田さんの本は読みたくなるんだよね。

 

ぼく自身はいまわりと恵まれた環境にいるけれど

現代のこの不公平な社会にたまたまうまく適応できているだけ

という自覚は持っていて

自分の恵まれた環境を素朴に楽しむことができなくて

社会の息苦しさを思って自分まで息苦しさを感じることが多くって

これって欺瞞だな

とは思うけれども

すっきりしない日々が続いている。

 

こんなんじゃだめなんだけどね。

 

貧乏と貧乏くささは違う

っていうのはひとつのヒントになるような気がする。

 

 

 

 

 

--生きづらさについて考える--

内田樹

科学技術の進歩の速さに

人間の倫理観の更新が追いついていない。

 

科学技術の進歩

って書いたものの

進歩がポジティブな意味だとすると

この場合の進歩は違う言葉に言い換えないといけないかもしれない。

 

全然ポジティブじゃないから。

 

出生前診断で

医師が検査結果をケアレスミスで読み違え

染色体異常があるにもかかわらず

ないと伝えた。

 

産まれた赤ん坊は親の予期に反して重い障害を抱えていた。

 

出生前診断の結果が正しく伝えられていたら

両親は中絶を選ぶつもりだったという。

 

産まれた赤ん坊は重い障害を抱えたまま

間もなく亡くなる。

 

ノンフィクション作家の河合香織さんが

ていねいに関係者を取材する。

 

その対象は多面的であり

一方的なストーリーに寄せていかない。

 

ここにはたくさんの倫理的な問題が存在する。

 

そもそも出生前診断を受けるべきかどうか。

 

出生前診断を受ける理由はなにか。

 

出生前診断を受けない理由はなにか。

 

出生前診断の結果に問題がある場合どうするか。

 

出生前診断に誤診があった場合どういう問題が起こるか。

 

そもそも出生前診断はあくまでも可能性を示すものであって完全なものではない。

 

出生前診断の結果と逆の結果が出ることもあるし

結果通りだとしても程度には大きな差がある。

 

程度の差に線を引けるのか。

 

引けるとした場合どこに線を引くのか。

 

程度は産まれてみないとわからないし

産まれてからもいつまでもわからないかもしれない。

 

重い障害を持って産まれてきて間もなく亡くなった赤ん坊自身に

産まれてきた苦痛の損害賠償や慰謝料の請求をする権利はあるか。

 

あるとすればいつから発生するか。

 

意思表示の手段を持たない赤ん坊自身の苦痛は誰が認定するか。

 

本人以外の者が本人の苦痛を認定することができるのか。

 

重い障害とはどの程度か線を引けるのか。

 

損害賠償や慰謝料を請求をする権利があるとすればその相手は誰か。

 

産んだ親にか誤診をした医師にか。

 

産んだ親の苦痛とは何か。

 

苦痛を主張する資格はあるか。

 

そもそも出生前診断で診断できるのは一部の障害でしかないのに

そこで命の選別をしてしまって良いのか。

 

産み育てる社会環境が整っていない中で産むことは正しいのか。

 

障害を持って産まれてきて現に今生きているひとたちにどう説明するのか。

 

命を選ぶことはできるのか。

 

命を選ぶことができるのは誰か。

 

産む者か。

 

医師か。

 

国家か。

 

社会か。

 

これから産まれてくる赤ん坊自身に

産まれるかどうかを選ぶ権利はないのか。

 

こんな重たい決断をさせられるなんて

赤ん坊を授かる前に誰が想像しているだろう。

 

こんなことを迷いなく決断できるひとがいるだろうか。

 

妊娠する前に入念に検討することは可能かもしれないが

そんなことを考えて妊娠するひとは

世の中にどれだけいるだろうか。

 

仮に考えていたとしても

いよいよその問題に直面した時に

考えは揺るがないものだろうか。

 

胎児の成長という待ったなしの時間的制約の中

短い時間でその決断をしなければいけなくなるが

崖っぷちで指先一本で引っかかっているときにした決断というものは

後の人生でも後悔しないでいられるほど正しいものなのか。

 

すべての命を安心して産むことができる社会であれば

こんなことは何も問題にならないのかもしれない。

 

でも

社会がそうなっていない以上

それぞれの決断に意見できるひとなんているのだろうか。

 

すくなくとも

どのような決断を行ったとしても

生涯その決断が正しかったかどうか葛藤し続けることになるだろう。

 

忘れてしまうことは難しいだろう。

 

こういうことを知れば知るほど

子どもを産むことに躊躇いを覚える女性は多くなるだろう。

 

そもそも産むことを選択しなければこのようなことで迷う必要はなくなるかもしれない。

 

出生前診断の技術の進歩は誰も止めることはできないだろう。

 

技術が進歩すればするほど

命の選別という葛藤を抱えるひとは増え続けていくだろう。

 

その葛藤に耐えられるだけの感性や知性を持てるひとはどれだけいるだろう。

 

ぼくには自信がない。

 

でも世の中には

ありのままの命をこころの底から尊いと思えるひとが少なからずいるのもほんとうなんだよな。

 

そう思うと自分は酷く冷たい人間だなと思うし哀れな人間だとも思う。

 

それを社会のせいにするのは簡単なんだけど

そうじゃないひとがいるわけだから

ただの逃避ってことになるんだよな。

 

こんな葛藤はしたくないので

子どもを産むことに躊躇いを覚えることになる。

 

ぐるぐるまわっていく。

 

ぼくがこんなふうに勝手に葛藤している間にも

新しい命は産まれていくし

当事者にならない限り葛藤することもないし

なんだかんだいって人間は

生きること

産むこと

が本能に組み込まれているから

それに抗うのは不自然なことなのかもしれない。

 

 

 

 

--選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子--

河合香織