最近新型コロナのことばかり考えているから
ちょっと頭を離したいなと考えた。
ここはあえて昔の本を
ということで
かねてから興味のあった
永井荷風の断腸亭日乗か
内田百閒の阿房列車かを
読んでみようと思い書店に行った。
書店に行く段階では
断腸亭日乗の方が
やや優勢と考えていた。
関東大震災とか
太平洋戦争とかの
記述があると聞いていたので
いまの世相とも繋がるかもな
と思ってのことだった。
新型コロナから頭を離したいといいながら矛盾しているが
わからないことでもないだろう。
書棚から先に見つけた
第一阿房列車を手にとり
最初の数行をさらりと読んで
ふむふむこんな感じか
と頭に感触を放り込んだあと
断腸亭日乗を手にとり
おっとこれはきっと当時の仮名遣いで
かっこいいんだけど
読むのにエネルギーが必要そうだ
とぐうたらな脳が拒否反応を示し
読みやすそうな第一阿房列車に軍配があがったのであった。
後から知ったことだが
ほぼ同時代(永井荷風の方が10年早く生まれている)の2人なので
当時は同じような仮名遣いだっただろうが
ぼくが手にした新潮文庫の第一阿房列車は
新仮名遣いで刊行されているものだった。
同じ日本語だし古文でもないから
旧仮名遣いでも読めるんだろうけど
ちょっと脳のエネルギーがいつもよりも余計に必要になるので
現実逃避をしたい身には避けたいのだった。
断腸亭日乗はまたの機会に読むことにしよう。
で家で読み始めてふと気づいた。
この作品は
町田康さんの作品に似ている。
まず百閒先生の思考の流れが
あっちへいったりこっちへきたりと自由自在で
肯定しているかと思えば否定しており
批判しているかと思えば共感していたりする。
そしておよそ権威的なところがなく
ユーモラスで思わずほくそ笑んでしまう。
それから
かしこまらない関係の弟子みたいな立場の連れを伴って
旅をしている。
ひとの名前の付け方も似ている。
ヒマラヤ山系とか懸念仏とか。
町田康さんの作品が好きなぼくとしては
そういうところが気に入った。
さらに戦後間もない頃の鉄道旅の様子がいい。
ぼくは鉄道に詳しくはないが
漫画の「鉄子の旅」(菊池直恵作 旅の案内人横見浩彦)を
全巻読んでいるので
それと重なっているところと違っているところを楽しめた。
(スウィッチバックとかルウプ線とかも出てきた。)
行き先に用事がなく
電車に乗ることが目的の阿房列車の旅というコンセプトもいい。
旅先での国鉄関係者や宿のひとたちとのやりとりもおもしろいし
観光はほとんどしていないとはいえ
目に映る何気ない情景の描写も目に浮かぶようで
時代も違うし行ったこともないけれど
まさにそこを旅をしている気分になれる。
青森県の浅虫温泉に泊まったときに
浜寺から須磨を走る鉄道が見えたことを回想したところもよかった。
----
洋室の高い硝子戸の下はすぐ海である。陸奥湾の夜風は荒く、浪の音が次第に高くなった。その内にばりばりと硝子戸を打つ音がして、暗い時雨を海風が敲きつけて行った。
時雨の来る暗い海に向かった左手が、陸続きの出鼻になっていると見えて、海との境目と思われる辺りを、窓の明かるい夜汽車が何本も行ったり来たりした。夜汽車が波打際を走って行くのを外から眺めるとしみじみした気持がする。遠くから見る程趣きが深い。大阪の近くの浜寺から、夜の大阪湾の海波を隔てて、一ノ谷の山裾を走る須磨海岸の夜汽車の明かりを見たのが、私の記憶の中では一番遠かった。蛍の火が列になって流れて行った様であった。
----
いまではこんな光景は絶対に見られない。
上の前歯をぶらぶらさせたまま
自然に抜けるまで抜かないというこだわりはいかがなものかと思うが
百閒先生の独特の思考は
気取らず無理せず自分らしくあろうとすることでもあり
他者への思いやりでもあったりする。
ぼくの考え方に似ているところもあるような気がして
我ながら面倒くさいタイプではあるが
それもひとつの美的感覚というか
生き方である。
とにもかくにも
新型コロナから頭を離すというねらいはもちろん果たせたし
さらに
家に居ながらにして
実際に旅をするよりもいい旅をした気分にもなれたので
今回はこの本を選んでよかったよかった。
それにしてもぼくも
ヒマラヤ山系くんみたいな
気を遣わなくてもよい気心の知れた
旅の連れがほしいものだ。
--第一阿房列車--
内田百閒