人間失格 太宰治 | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

読むのをあえて避けてきた

太宰治さんの

人間失格

をとうとう読んだ。

 

又吉直樹さんの

人間

を読んだりやら何やらで

読んでみようかという気になったのがきっかけ。

 

たしかに問題作ではあると思うけど

想像していたほど衝撃はなかったな。

 

太宰治作品は

斜陽やら

走れメロスやら

ヴィヨンの妻やら

お伽草紙やら

読んでいるし

この人間失格に影響を受けているであろう

後年の作家の作品も読んでいるからね。

 

有名な

恥の多い生涯を送ってきました。

から始まると思っていたら

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

から始まったので

おや

と思った。

 

なるほど

作家が葉蔵の手記を読むっていう構成なのね。

 

たしかに人間の醜い部分やるせない部分どうしようもない部分が

うまく描かれている。

 

ぼくにも思いあたる節がある。

 

人間の裏表とかほんとうに見たくない。

 

これを聖書みたいにして

繰り返し読むひとがいるのもうなずける。

 

人間洞察の濃度が濃い。

 

それにしても葉蔵は

生活力というか生きる意思のエネルギーが弱すぎる。

 

それでいて身体が強いのか運が強いのか

なかなか死なない。

 

いや死ぬのにもエネルギーがいるから

葉蔵みたいに弱いエネルギーでは死ぬことすらできないのかもしれない。

 

人間の醜さに気付いたり

争うことができなかったりするのは

ぼくも同じようなところがあるけど

だからといって葉蔵みたいな

お道化

をしようということにはならない。

 

もしかしたらそれに近いことはしているかもしれないけど

でもやっぱり違うだろう。

 

でも

葉蔵みたいな思考パターンを踏んでしまうひとが

世の中には相当数いるだろうことは実感としてわかるので

そういうひとと付き合うときの参考になるかな。

 

いやならないかな。

 

葉蔵が堀木とアパートの屋上でやる

喜劇名詞

悲劇名詞

の当てっこや

対義語(アントニム)

の当てっこ

という遊びはなかなか洒落ていて楽しいが

こういうのに酔っちゃうのはかっこわるい。

 

その後に起こる悲劇。

 

ぼくだったらどうするだろう。

 

とにかく何も考えずにそこに乗り込んで

男を駆逐するんだろうな。

 

その後の気まずさをどうするか。

 

考えたくもないな。

 

女をどうやって慰めるのか。

 

そもそも慰めるっていうのが正しいことかどうかもわからない。

 

なにごともなかったように過ごす?

 

それも針のむしろで本人も女もつらいだろうな。

 

考えるだけでも八方塞がりで憂鬱になるので

何もせずに屋上に上がってしまう葉蔵の気持ちもわからないではないが

これはたぶん間違ってるんだろうな。

 

でもやっぱり正解はわからない。

 

すぐに乗り込んで男をぼこぼこにして

女に事情を聞いて

慰めて

そしてふたりは

さらに強い絆で結ばれる

っていう答えもあるのかもしれないけど

そんなことできるの?

って思ってしまう。

 

どなたかこういう場合にどうしたら良いのか教えてください。

 

個人的に考えさせられたのは

神に問う。信頼は罪なりや。

果して、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。

という問いかけ。

 

人間に対する無垢な信頼

っていうのはたしかに美徳であり魅力であると思う。

 

そういう人間になりたいし

そういう人間は魅力的だと思う。

 

でも

社会はそういう無垢な信頼のできるひとから搾取し餌食にする。

 

たいせつなひとを守りたいから

無垢な信頼を捨てて警戒することを教えてしまう。

 

そのことで

無垢な信頼という魅力が損なわれてしまう。

 

なんというジレンマ。

 

それはそうと

葉蔵が次々と女性といい関係になるのを

羨ましいと思うかといえば

全然羨ましくない。

 

葉蔵にかまう女性たちを

それほど魅力的に感じないからかな。

 

さあ果たしてぼくのこの

人間失格

の感想は妥当なのだろうか。

 

熱烈なファンからは批判されるのかもしれないな。

 

 

 

 

 

--人間失格--

太宰治