現代の日本は女性にとって生きにくい社会だな
と常々思っている。
この小説は韓国の話で
日本と異なる部分も多いが
共通する部分もたくさんある。
っていうか
個人的にはほとんど共通しているように思える。
女性であるという理由で課せられた制約。
わずかな選択肢あるいは暗黙の強制。
祖母の世代
母の世代
そして自分の世代
でその内容は変わっていくが
ベースとなる考え方は変わらない。
女性の制約について女性が声をあげると
男性だって苦しいという声が必ずあがる。
特に韓国の男性には兵役があるので
そういう声には説得力があるように聞こえる。
でもこういう男性対女性みたいな争いの場面に出くわすと
ぼくはいつもこう思う。
どっちの方がより苦しいかを比べて我慢を強い続けるなんて馬鹿げている
どっちの苦しみも薄れるようにお互いが協力したらいいんじゃないの?
って。
そうやってお互いに個々の苦しみを薄れさせるように協力しても
現時点での人間社会は万能ではないので
どうしても残る苦しみというのは必ずある。
結果
いまとそれほど変わらない男性女性の苦しみが残るのかもしれない。
でも
どうしてもその苦しみが残ってしまう理由さえわかれば
我慢するにしてもより納得性が高まるんじゃないかな。
協力して問題解決を図る過程を飛ばして現状を是認せよっていうのは
乱暴な押し付けだと思う。
素朴な感想として
キム・ジヨンも
同僚や友人の女性も
母世代も祖母世代も
辛いだろうなあと思う。
こんな経験はしたくないし
自分の家族や親しいひとにこんな経験をしてもらいたくない。
出産、子育てに関わって
男性が失うものと女性が失うものは比べようがない。
子どもも欲しい
仕事もしたい
それが誰もに必須の願いではないとしても
それを願うひとがそれを求めるのはそんなに無茶なことではないと思うし
それが実現できないのはやはりどこかがおかしいのだろう。
現にそれを実現している社会もあるわけだから
絶対に不可能というわけではないはずだ。
男性女性の双方に現状のような制約を課すことで
利益を得ているものがあるはずで
それは何らかの企業や政府であったり
ときの権力基盤であったり
当事者以外の祖父母世代父母世代であったり
それこそ同世代の同性のなかにもいるだろう。
もっといえば苦しみの渦中にあるはずの
自分自身のなかにさえ潜んでいるかもしれない。
男性女性という大括りの利害もあるが
個々の人間には異なる利害があるのも事実だ。
ぼくは
無知のベール
の話が好きで
それはどんな話かというと
今の世界に存在するすべてのひとが
いったん自分の属性
人種、国籍、居住地、性別、職業、役職、結婚しているかどうか、子どもがいるかどうか、障害があるかどうかなどのすべての属性
を忘れてしまう無知のベールの下に潜り込んで
このベールを出たあとに自分がどんな属性になっても構わないように
社会のルールを組み立てましょうって話し合う
っていうもの。
どうしても現実の世界では既存のルールに引きずられてしまうので
ゼロベースで考えるなんてできないけど
理想像を描くっていうのは必要だと思う。
日本版の
82年生まれ、キム・ジヨン
も読みたい。
この本の推薦文を書いた松田青子さんあたりが書くのがいいかな。
日本版だったら
82年生まれ、佐藤裕子
とかになるのかな。
(裕子は82年生まれでいちばん多い女性の名前、佐藤はいちばん多い姓。)
あと
男性版のも読んでみたい。
女性とは異なるにしても
男性にも社会的な性別期待像による苦しみはあるので。
ぼくがふだん読んでいる小説とは趣が異なって
精神科医が患者の経験をまとめたという体裁になっているけど
ノンフィクションっぽいというか統計的な描写で
そういう描き方が新鮮だったし効果的だったと思う。
伊東順子さんの解説で知った
この小説での名前の表現のねらいもなるほどなあと思った。
ミラーリングっていうのは無知のベールにも似ている。
--82年生まれ、キム・ジヨン--
チョ・ナムジュ
訳 斎藤 真理子