世界は存在する。
それがぼくたちの一般的な理解。
けれども
マルクス・ガブリエルは
世界は存在しない
という。
えっ?!
いや、現にここにあるし
って思う。
月がある。
東京からそれを見上げるAさん。
大阪からそれを見上げるBさんとCさん。
AさんBさんCさんがどこから見ていようと
あるいは誰も見ていなくても
月がある。
それは形而上的な月の存在。
月のイデア。
月そのもの。
いや
月そのものなんてない。
あるのは
東京から見上げるAさんにとっての月
大阪から見上げるBさんにとっての月
同じく大阪から見上げるCさんにとっての月
だけで
同じ月なんてない。
それは構築主義の月の存在。
意味を構築。
つまり幻想かもしれない月の存在。
いやいや
月そのものもあるし
東京から見上げるAさんにとっての月も
大阪から見上げるBさんにとっての月も
同じく大阪から見上げるCさんにとっての月もある。
それが
マルクス・ガブリエルのいう
あたらしい実在論における月の存在。
無数の意味の場の数だけ無数の月がある。
けれども世界は存在しない。
ひとつのルールで説明できるような世界は存在しない。
自然科学で説明できる世界は
あくまでも自然科学の見方(パースペクティブ)の範囲での
世界である。
宇宙は自然科学で説明できる。
人間もあらゆる物質も
単に素粒子の集積に過ぎない。
そんなふうに考えるのは
あくまでも自然科学の見方の範囲での世界。
ぼくたちが見る夢や思い出や想像は
自然科学で説明できないがまぎれもなく存在する。
神のもとで説明しきれる世界も存在しない。
それはその神の範囲での世界に過ぎない。
かように世界は存在しない。
けれども
世界以外のすべてのものは存在する。
そこに希望や自由がある。
ぼくたちはつい
わかりやすいルールを求めて安心したくなるけれど
そんなものはない。
だからこそ希望や自由がある。
いつも考え続けて
その都度その都度
折り合いをつけていかなければならない。
それはしんどいことだけど
希望や自由もそこにある。
わかりやすいルールに縛られるのは実は窮屈で息苦しいんだから。
こんなふうにこの本を解釈してみたけれど
やっぱり1回読んだだけではわからないな。
簡単そうで難しいよ。
でも
とても刺激的な冒険ではある。
--なぜ世界は存在しないのか--
マルクス・ガブリエル
訳 清水一浩