ずいぶん久しぶりに読んでみた。
好きな作品だ。
なぜいま読み返したくなったのかはわからない。
ただ以前読んだ時ほどには不条理を感じなかったのが意外だった。
こういうこともどこかで実際にあるかも
と思えてしまう。
現実が小説の不条理に近づいてきたということか。
あるいはぼくが社会の不条理を見慣れてきたせいか。
最近思うのは
不条理は社会のデフォルトである
ということ。
社会は基本的に不条理なものであって
その不条理を不条理のまま利用しようとするひとと
不条理を条理におさめようとするひととが
せめぎあってきたのが人間の歴史である
なんていいたくなる。
砂と湿度と太陽と風。
砂の穴の下の女と「あいつ」との違いと共通性。
ニワハンミョウ。
小説の最後があんな感じで終わるのは忘れていた。
ぼくの頭のなかではもう少し違う終わり方のイメージになっていた。
どちらもありだとは思うが。
砂の穴の下の女と主人公との恥の感覚が逆転するシーンが象徴的だ。
見られても構わないと思う主人公と
はっきりと拒む女。
それまでさんざん侮ってきた女の文化水準よりも劣る主人公の感覚。
それは麻痺の結果なのか
もともと秘められていたものなのか。
囚われているのは内にいる者なのかそれとも外にいる者なのか。
こちらから見て異常に思える思考や文化も
あちらにとっては至極まっとうで
逆にあちらからこちらを見ると
異常に感じられる思考や文化があるということを
知っておかなければならない。
この集落は果たして異常なのか。
女の暮らしや考え方は果たして異常なのか。
そしてこちらは果たして正常なのか。
というよりも
あちらもこちらも実はそんなに変わらない
同じ主題を異なるバリエーションで展開しているだけ
っていうことなのかもしれない。
砂をかいて暮らす一生と
教師として過ごす一生は
果たして異なるものなのだろうか。
これがふつう
と信じ込んでいるこの世界の地盤が
砂のように足元から揺らいでくる感覚に陥る
安部公房の名作である。
1962年に発行。
--砂の女--
安部公房