全体主義は嫌いだ。
ぜったいにそんな世の中になってほしくない。
1980年代あたりの日本でこの小説を読んだなら
きっとシニカルなジョークのように読めただろうけど
いま読むとリアルな危機感がよぎる。
この小説は近々訪れるであろう日本の未来を予見しているのか?
いや
この小説が刊行されたのは1949年。
あの忌まわしい戦争が終わってからたったの4年後。
といっても
イスラエルが独立宣言をして第一次中東戦争が始まったのは1948年だし
朝鮮戦争が始まったのは1950年だし
戦争は世界レベルでは終わっていなかったのだが。
それはさておき
第二次世界大戦後には
戦勝国のひとびとはファシズムを徹底的に批判していた。
その流れでこの小説も書かれたのだろう。
戦勝国だってファシズムとは無縁ではいられなかったのだろうが。
全体のために個を喪失させる社会システム。
統制と抑圧。
国家レベルだけでなく
ぼくたちの身の回りでもしばしば
プチ・ファシズム
のようなものがあらわれる。
同調圧力なんかはファシズムの芽のようなものではないだろうか。
同調圧力は善意からも発生する。
ぼくの見立てでは
日本の社会は容易にファシズムに転換しうる性質を持っているように思える。
まじめであるが故に
全体で決まったことには従うという文化。
これ自体はけっして悪いことではないのだが
批判や検討をおざなりにして
決めたことには疑いもなくとにかく従うべし
ということなら注意が必要だ。
自分で決めるのが嫌で
誰かに決められたがっているひとって結構いる。
この小説に出てくるパーソンズみたいなタイプのひとたち。
まちじゅうに貼られたビッグ・ブラザーのポスターににらまれ
まちじゅうはもちろん自宅の部屋のなかにまで設置されたテレスクリーンに監視され
思考警察はとうぜんのこと
こどもたちが結成している無邪気なスパイ団による告発にさえ怯えて生活する。
二重思考とニュースピーク。
ことばはたしかに思考の源泉だ。
ことばを貧困化すれば思考も貧困化する。
良
超良
倍超良
こんなことばばかり使っていたら
良
にあたる他のことばはやがて失われる。
ことばが失われると
それにともなう思考も失われる。
はたしていまのぼくたちのことばはゆたかだろうか。
この小説に描かれるニュースピークと
それほどかわらないなんてことはないか。
二重思考なんてなんらかの組織に属していたら
ふつうに身に着けているスキルではないだろうか。
会社組織でもそう
学校組織でもそう。
本音と建て前とが違うならまだまし。
建て前がやがて本音になるという思考訓練。
過去は現在に合わせて徹底的に改変され
さらに改変を実行した者ですら改変したことじたいを忘れ
それが最初からそうであったと信じる。
おそろしい。
おそろしいが
これはけっしてフィクションのなかだけのことではないように感じられるのが
さらにおそろしい。
戦争状態を維持するために戦争をする“平和省”
ひとびとの思考をコントロールするために拷問も厭わない“愛情省”
過去に起こった出来事を現在の都合にあわせて改変する“真理省”。
戦争を平和の名のもとに
思想統制を愛情の名のもとに
虚偽の積み重ねを真理の名のもとに
実行していく党と党員。
読みながらぼくは
ぼくの好きなカフカの“審判”を思い起こした。
カフカの“審判”は1914年から1915年に書かれ
カフカ没後の1927年に刊行されている。
“一九八四年”が刊行される22年前だ。
ジョージ・オーウェルが“審判”を読んでいるかどうかは知らない。
ぼくにとっては
オーウェルの“一九八四年”よりも
カフカの“審判”の方が好みだ。
“一九八四年”はストーリーや表現が直接的でわかりやすいのだが
“審判”は寓意に富んでいて読み手の想像力がかきたてられるように思えるからだ。
とはいえ
現在の日本の状況に不安感や危機感を抱いているひとにとってこの小説は
自分のなかのもやもやした不安をはっきりと文章化してくれているように感じられるだろう。
―― 一九八四年 ――
ジョージ・オーウェル
訳 高橋和久