先日
他の部署のひとたちとの懇親会であったできごと。
ふだん家でどんなふうに過ごしているかって話になって
ぼくの話をしたところ
それをきいていたあるひとが
それで幸せですか?
ってたずねてきた。
ぼくの地味過ぎる生活の話をすると
だいたいこういう反応が返ってくるので
もう慣れっこになっているし
またたずねる方も別に深い意味があってたずねているわけではなく
ただ単純な反応としてたずねているだけなので
いつもなら
まあそれなりに幸せですよ
って返すのだが
このときはちょっとおどけて
幸せでないといけないんですか?
って返してみた。
それをきいていた別のひとたちは
深いねえ!
って感心してくれたり
めんどうくさいこといってるなあ!
って笑ってくれたりしたのだが
最初に
幸せですか?
ってたずねてきたひとは
すこし間をあけたあとにしみじみと
幸せになってくださいね
ってことばをかけてくれた。
ぼくは
あ、ありがとうございます
と返すのがやっとだった。
ほんのささやかな冗談のつもりだったのだが
けっこう小さな切り傷をいくつもこころに刻まれたできごとであった。
で
ぼくはまあ地味ながらもそれなりに幸せに暮らしているのだが
幸せでないといけないんですか?
には冗談のつもりとはいいながら半分くらい本気でそう考えているところもある。
こういうと
身近なところにあるちいさな幸せにきづいてたいせつにするって意味でしょ?
っていってくるひとがいる。
現状に満足できずに
隣の芝生が青いと錯覚してうろうろと迷走してしまうひとたちをみていると
幸せさがしのせいでかえって不幸せになっているんじゃないかな
って感じる場面がしばしばある。
だから
身近なところにあるちいさな幸せにきづいてたいせつにする
っていうのはその通りなんだけど
いっぽうで
そもそも幸せになることが人生の目的だと思うと不自由になっちゃうんじゃないかな
という思いもあるのだ。
幸せであろうとなかろうと生きているから生きている
っていう状態を受入れられるのが理想なのではないか
という予感がぼくにはあるのだ。
とはいえ
もしもそんな理想を手に入れてしまったら
ぼくはもうひとじゃなくなっているだろうとも思う。
だからやっぱり本音のところでは
たとえ地味な幸せでも感じていたいのかもしれない。
幸せさがし病にならない程度に。