“たけくらべ”からの“三四郎”。
明治の青春って素敵。
理念先行な感じが。
1908年(明治41年)発表の作品なのでもう107年も経っている。
さすがだな
夏目漱石。
近代日本文学の技巧のすべてがここにあるように思うくらい。
10代の頃に読んでいるのだが
なんとなくあらすじは覚えていた。
特に印象に残っていたのは
菊人形を観に行った場面で
今回の読み直しでもやっぱりいいなあと思った。
美禰子と三四郎の距離感。
交わすことばの繊細さ。
ストレイシープって美禰子が最初にいうのもこの場面だった。
上京途中の名古屋の宿屋の場面は
10代の頃の方がいまよりもどきどきしながら読んでいただろうな。
「あなたは余っ程度胸のない方ですね」
ってそういわれましても
あの場面での正解はなんだったのか。
きっと三四郎の行動で正解だったのだろう。
仮に三四郎のなかの男の部分が勝っていたとして
女のからだに触れたとしたら
女はそのまま受け入れただろうか。
否
受け入れないと思う。
そういう罠を無邪気に仕掛けるのが女だからな。
誤解させるような雰囲気を漂わせながら
こちらがいよいよその気になったらするりとかわすという。
こんなふうに考えてしまうぼくはいまだに
“余っ程度胸のない方”なのかもしれないが。
そのあと
広田先生が三四郎にかけることばもいい。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より…」「日本より頭の中の方が広いでしょう」
ぼくの好きな系統のことばだ。
この作品に描かれる
明治のころの学生の生活や東京の文化
広田先生や野々宮君や与次郎たちと交わされる形而上的なやりとり
も興味深いけれども
やはりぼくとしては美禰子を巡る三四郎の恋の物語として読みたい。
そういうわけで
最初の出会いの場面。
夕暮れの池のそばの岡の上。
印象的。
それから
野々宮君の妹であるよし子を病院に見舞ったときの場面もいい。
さらに
与次郎に金を貸したことから
なぜか美禰子に金を借りることになった三四郎。
その金を受け取る場面は美禰子の心理がおもしろい。
美禰子にしてみたら三四郎が自分に好意を持っているのはわかっているに違いない。
で
美禰子はその状況を愉しんでいる。
自分が三四郎に対して優位に立っているとも思っているのではないか。
だから三四郎に対していたずらな会話を投げかけるが
それで三四郎が気を悪くしたと感じると急にしおらしく不安になってみたりする。
このあたりのやりとりがたのしい。
丹青会の展覧会の場面もいい。
野々宮君の前での美禰子の振る舞い。
ちょっと野々宮君が気の毒でもあるが。
ほかにも好きな場面はたくさんある。
ほとんど全編がそうだといってもいい。
広田先生が三四郎にきかせる夢の場面もいい。
この場面で
達観して浮世離れした広田先生の哀しみみたいなものが伝わる。
よし子もかわいい。
美禰子かよし子かどちらを選ぶかっていわれたら
若いころならミステリアスで才が立つ美禰子で即決だっただろうが
いまならよし子の快活なしたたかさも魅力。
無邪気に振る舞っているようでも
女は誰でも無意識にそれなりの計算を働かせているものだ。
そこの魅力もわかるようになってきた。
逆に美禰子の複雑さゆえの精神的な脆さというのもわかるようになってきた。
守ってあげたくなるけれどもけっこう振り回されそうでもある。
結局ストレイシープなのは三四郎なのか美禰子なのか。
たしかに三四郎もめまぐるしく変化する東京での暮らしで迷っているけれども
やはり美禰子の方がより迷っているような気がする。
考え過ぎて自分を見失っているかのような。
青春の恋愛ドラマであるが
現代の小説のようにセクシュアルではない。
セックスはもちろんキスもしなければ手に触れさえもしない。
だからよけいにエロチック。
顔が近づくだけでもどきどきする。
美禰子がモデルになって原口さんに絵を描かれている場面で
三四郎がようやく言った
「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」
はこの作品における究極の愛の告白。
その後に
美禰子がほかの男と結婚することを知った三四郎に美禰子がいうことば。
「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」
これも深い。
そしてラストがおしゃれ。
原口さんが描いた美禰子の絵。
たしかに“森の女”よりは三四郎が思ったタイトルの方がいい。
――三四郎――
夏目漱石