3月のアンドレアス・グルスキー展に引き続き
またもや国立国際美術館に行ってきた。
ジャン・フォートリエ展。
ぼくにはなじみのない画家である。
リーフレットなどで見かける
“人質の頭部”
という作品に惹かれたので
観に行くことにした。
やはり美術館は平日に限る。
土日の人ごみは鑑賞という行為の味わいを損ねる。
しばらくこのようにゆったりとした時間は得られなかったので
これくらいの贅沢は許してもらえるだろう。
たまにはね。
“没後50年、日本初の回顧展”
と銘打たれている。
3章構成。
第1章は“レアリスムから厚塗りへ(1922-1938年)”
正直なところ
このころの作品はぼくにはあまり響かなかった。
後年の作品に通じる萌芽のようなものを
感じようと思えば感じることもできるのだろうが
あまりそうしたいとも思わなかったので
ひととおりさらっと眺めて通り抜けた。
第2章は“厚塗りから「人質」へ(1938-1945年)”
戦争が彼の作品に影響を与える。
連作「人質」。
ナチスドイツからのパリ解放後に発表されたこのシリーズ。
リーフレットの“人質の頭部”もこのシリーズのなかにある。
第1章の時代に取り組んでいた写実を離れ
かたちを失い抽象に向かっていく。
削ぎ落とされた表現をぼくは好む。
プリミティブの感覚からいえば
抽象と縄文はうりふたつだ。
いずれも理屈を超えて直接ぼくをかたちづくる素粒子に働きかけてくる。
なんていいたくなる。
「人質」シリーズは第2章の後半
カーテンで仕切られたやや暗い部屋に
厳かに配置されている。
そこには2点のブロンズの彫刻も置かれていたが
そのどちらもが
絵画よりもさらに強くぼくに響いてきた。
“悲劇的な頭部(大)”
と
“人質の頭部”
より削ぎ落とされた表現の“人質の頭部”の迫力が凄かった。
破壊と暴力の緊張感。
悲壮と透徹。
これらの作品を観て
楳図かずおさんの“14歳”に出てくる
チキン・ジョージを思い出したのは
ぼくの的外れな連想だろうか。
カーテンで仕切られた部屋を抜けると
第3章。
第3章は“第二次世界大戦後(1945-1964年)”
ここではさらに表現は削ぎ落とされかたちを失っていく。
抽象からアンフォルメルへ。
非定型の芸術。
いまだなにものでもなく
同時になにものでもありうる。
ここでは
“黒の青”
“雨”
“無題(四辺画)”
なんかがぼくの好み。
脳内の思考の様子を
そのまま紙のうえにあらわしたら
こんなふうになるのではないか
と思えるほどに
不安定であると同時に
爽やかであり
落ち着かせてもくれるし
かわいらしさすら感じさせる。
第3章のあとの部屋で
50年以上前にフォートリエが対談している番組を
映写していたが
そのなかでフォートリエが次のようなことを語っていた。
私にとって作品はすでに頭の中で完成しており
手を動かす時間は短い。
無造作に書き殴られたようにも見えるその色彩や
形状ともいえぬその筆の跡は
これから何かになる可能性をはらんだ
原初的な感性の発現なのだろう。
ところでこれは蛇足だが
映像で見るフォートリエは
高齢であるにもかかわらず
並々ならぬセクシーさで
これは女性にモテただろうな
なんてそう思わずにはいられなかった。