華氏451度で
紙は引火し
燃える。
本を読むこと
本を所有することを
禁止された未来。
ひとびとに思考させないことにより
統治をしやすくする目的で。
耳には“巻貝”と呼ばれる
携帯ラジオ端末。
部屋の“壁”はスクリーンになっていて
“家族”たちが無意味なことを話している。
隙間なくコンテンツを提供する
“巻貝”と“壁”により
考える時間を失ったひとびと。
主人公のガイ・モンターグの仕事は
昇火士(ファイアマン)。
本を隠し持っているひとがいる
という通報を受けて出動し
家ごと本を焼き払う。
このモンターグ。
決して共感できる主人公ではない。
むしろろくでもない人物である。
ダーティーだとしても魅力があればいいのだが
彼にはそれは感じられない。
ぼくからすればだめ人間だ。
自分の仕事の非道さに気づいたのはいいが
そのあとの方法が稚拙でいきあたりばったりだ。
けれどもそれは仕方がないのかもしれない。
彼には本を読むという経験がなかったのだから。
この小説が書かれたのは1953年。
未来を舞台にしてはいるが
特定の本や思想あるいは文化や教養を
否定し弾圧するということは
過去から世界中で行われてきたし
現在も行われている。
現在の日本はその点安心でよかった
なんて思っているひとがいたら
それはある程度までは正解だが
完全に正解というわけではない。
やっぱり現在の日本にだって
特定の本や思想あるいは文化や教養を
否定し弾圧するということはあるのだ。
むしろこれからは
より鮮明にそれが行われそうな気配さえ漂っている。
しかもそれは権力によるとは限らず
市井のぼくたち自身が
無意識にやってのけることだってあるのだ。
否定し弾圧するときのキャッチフレーズはいつだって同じ。
ひとびとを悪い思想から守るため。
それならいいじゃん
っていいたくなるけれども
悪い思想の定義なんて容易じゃない。
自分のふだん考えていることが
悪い思想だ
というレッテルを貼られないとは限らない。
そういう意味で
この小説の取り扱っているテーマは
普遍的なのだ。
最後に
迷いながらも目が覚めつつあるモンターグ
を支援する老人フェーバーのことばから。
「ミスター・モンターグ、きみの目の前にいるのは臆病者だ。ずっと昔、わたしは事態が進行してゆくのを目にしていた。しかしなにもいわなかった。わたしは、誰もその“罪”に耳を傾けようともせん時代に、その気になれば声をあげることもできた無辜の民のひとりだったのに、口を閉ざして、みずから罪人になりさがった。そしていよいよ昇火士を使って書物を燃やす組織がつくられたときも、二、三度、文句をいっただけで沈黙してしまった。そのころはまだ、いっしょに苦情をいいたてたり抗議の叫びをあげたりする者もおらなかったのでね。そしていまでは手遅れだ」
――華氏451度――
レイ・ブラッドベリ
訳 伊藤典夫