素粒子のことば | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

秋の夜長の妄想

第2弾。


だんだん怪しげな

スピリチュアル臭が漂ってきたが

ここは妄想ということで

ひとつお許しいただきたい。


素粒子の一粒一粒に

魂のイデアが

含まれていて

素粒子の組み合わせが

魂の複合体であり

したがって

人間だけでなく

素粒子の組み合わせである

あらゆる動物、植物、鉱物、空気は

魂の複合体である

という妄想を膨らませてみた。


ここからいえるのは

クリオネも

秋桜も

水晶も

ヘリウムも

魂の複合体である

ということ。


これらが魂であるのならば

ぼくたちはこれらの魂を感じることができるはずだ。


しかしあいにく

ぼくたちの多くは

人間以外のものの魂を感じることはできない。


動物の魂は感じられるかもしれない。


でも動物のことばはわからない。


植物の魂になるとさらに難しい。


鉱物や空気となるとほとんど不可能に思える。


けれどもときどき

動物と話せるひとや

植物の気持ちを感じられるひと

鉱物や空気のことばがわかるというひとがいる。


それは単に空想力がゆたかで擬人化しただけの場合もあるが

ものそのものの魂を感じているっていうひともいる。


そういうひとの話をきくと

ついついぼくなんかは

うさんくさい

と感じてしまうが

最近膨らませたぼくの妄想によれば

ありうることになる。


素粒子の組み合わせが

魂の複合体であるとすれば

そのネットワークから生じるゆらぎのようなものは

そのもののことばである。


動物や植物や鉱物や空気のことばがわかるということは

それらの魂のゆらぎを感じるということだ。


突拍子もない妄想だと思うだろうか。


その通り。


けれども

そういうのも

ロマンチック

だと思いませんか。


思えば

アニミズム

八百万の神々

なんていうのも

単なる古代信仰ではなくて

古代の人類はものの魂を

そしてことばを

ほんとうに感じることができたのかもしれない。


進歩したつもりのぼくたちは

かつてはあたりまえに感じることができた

ものの魂を感じる能力

を失ったのかもしれない。


古代の人類のセンス。


素粒子のことばをきく感性。


それらは

ぼくたちが使用する言語ではなく

聴覚でも視覚でも嗅覚でも味覚でも触覚でもなく

素粒子そのものが感じることができることば。


素粒子のことばは

宇宙のことば。


いつか

そのことばを

感じてみたい。


そんなことを妄想する

彼岸の中日

秋分の日の夜。