暴力的に破壊される価値観 | (本好きな)かめのあゆみ

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台風11号。


激しい雨が降り続いている。


昨日の午後には、雨のあがった時間帯もあったのだが、今朝からいよいよ風も雨も本格化している。


今日の未明、めったにこんなことはないのだが、台風の状況が気になって目が覚めた。


テレビを点けて、NHKの気象情報に見入る。


しばらく眺めていると、さすがに深夜であたらしい情報も入らないのか、同じ情報が繰り返されてきたので、チャンネルを変える。


E-テレで、4人のおとなたちが、まじめに何かを語り合っている様子が目に留まる。


普段なら素通りするようなこんな映像に、なぜか心惹かれるのも深夜ならではの心理。


生物学者の福岡伸一さんが、戦前戦中の哲学者、西田幾多郎さんと京都学派の思考を追うドキュメンタリーのようだった。


福岡さんが生物学の研究を通じて辿り着いた、生命は絶対無二の存在ではなく分裂と結合を繰り返し常に変化しながら成立しているという“動的平衡”という考え方と、西田さんが唱えた“矛盾的自己同一”という考え方の共通性について考えるのがきっかけだったようだ。


福岡さんが、西田さんの思考を追っている中で、西田さんが戦争にどう関わったかがわかるようになってくる。


西田さんは、日本の全体主義的傾向を警戒し、戦争をしようとする日本の政治姿勢に距離をとっていたが、あるときから政治に関わるようになる。


日本の役割は、東アジアの国々を欧米列強の支配から解放し共栄させること、そしてそのリーダーとなるのは歴史的にもみても日本であるべきだということを論理展開する。


意外だった。


これって、まさに戦後の日本が批判の的になっている原因の思想じゃないか。


全体主義に批判的だった西田さんがなぜこの論理を持ち出したか。


西田さんは、全体主義を戒めるためにこの論を展開したのだが、結局、軍部に都合の良いように解釈されて利用されてしまうのだ。


西田さんとしては、お互いに納得しやすい論理形成をおこない、自然な形で日本の方向性を変えようと思っていたのだろうが、結局、そういったソフトランディング的な説得では、この時代の大きなうねりは軌道修正できなかったということだ。


東アジアを共栄させる、というところまではEUの試みなどに似ていて、民主的な志向であり共感できるのだが、それをするリーダーが日本であるべきだ、というところに、軍部がつけ込む隙を与えてしまったのだろう。


西田さんが、本気で日本がリーダーになるべきだと思っていたのなら、それは驕りだったかもしれないし、軍部が理解しやすいように提示した方便だったならば、それは逆効果になったのかもしれない。


最高の哲学者が、いかにうまく論理を構築したところで、それは戦場の修羅場からすると、あまりにも甘い机上の空論だったことになる。


けれどもぼくは机上の空論を批判する気はさらさらない。


やはり現場では思い浮かばないような、決定的な思考は、大局的に世界を見ることから生まれると思うからだ。


西田さんでも飲み込まれてしまった、現実世界の濁流。


ちょうど、昨日の朝、詩人のまどみちおさんの痛烈な記事を読んだところだった。


戦前、戦後を通じて、戦争を否定していたまどさんだが、戦中に2編の戦意高揚の詩を書いていたことを戦後数十年を経て研究者に指摘されたらしい。


まどさん自身も、研究者に指摘されるまでそんな作品を書いていたことを忘れていたという。


その事実を突きつけられて、愕然としたという。


戦中にそんな詩を書いておきながら、それを忘れていけしゃあしゃあと戦争を否定してきた自分。


その事実を突きつけられたとき、まどさんは痛烈に自己批判を開始する。


こういう記事を読むといたたまれなくなる。


人間って無力だな、って思う。


西田さんにしてもまどさんにしても、こころから平和を愛し、戦争を忌み嫌っていたと思う。


そして、戦争に対して、細心の注意を払って距離をとっていたはずだと思う。


そんなふたりでさえ、戦争の現場の濁流に飲み込まれてしまうのだ。


いわんや、小人たるぼくなんかは、どうなることだろう。


戦争は人の命を奪う。だから戦争はしてはいけない。


これは真理だと思う。


真理だと思うけど、説得力がないように感じるのはぼくだけだろうか。


あまりにも正しすぎて、反論できない思考は、ときにひとびとの思考を停止させる。


それ以上、何も語れなくなる。


掘り下げることもできなくなる。


だからぼくはあたりまえのことは言いたくない。


ぼくが戦争を嫌うのは、次のような理由からだといえば、おかしいだろうか。


戦争は、それまで持っていた価値観、世界観を、根底から暴力的に破壊するから。


たとえば、社会が戦争に傾いてきて、だんだんと戦争批判ができなくなってくる。


それまで戦争反対だと言っていたぼくも、だんだんと言いにくくなってきて、やがては戦争に加担するようになってくる。


だってそれが世情だったんだもの。


そういう言い訳をするぼくは、いまのぼくとはまったく価値観の異なる人間になっている。


そのときのぼくはぼくを信じることができるだろうか。


まどさんのように厳しい自己批判をできるだろうか。


あるいは戦場に赴いて、敵兵に攻撃を加えなければならない。


敵兵もひとりの人間。


家族だってあるだろう。


けれども戦場では、ぼくは彼を攻撃しなければならない。


彼に攻撃されるかもしれない。


攻撃したあとのぼくは、こう言うだろう。


だってここは戦場なのだから。


そういう言い訳をするぼくは、いまのぼくとはまったく価値観の異なる人間になっている。


そのときのぼくはぼくを信じることができるだろうか。


まどさんのように厳しい自己批判をできるだろうか。


好戦的な現場の上官の指示により、民間人に危害を加えることを求められることもあるだろう。


しかも、戦略とは何の関係もなしに。


ある種の気晴らしのために。


そんな上官の不条理な指示をぼくは拒めるだろうか。


従ったあとのぼくは、こう言うだろう。


だってここは戦場なのだから。


そういう言い訳をするぼくは、いまのぼくとはまったく価値観の異なる人間になっている。


そのときのぼくはぼくを信じることができるだろうか。


まどさんのように厳しい自己批判をできるだろうか。


例をあげればきりがないくらい、さまざまな場面で、ぼくのいまの価値観が暴力的に破壊されるさまが目に浮かぶ。


ぼくがいま持っている価値観なんて、たいしたことはないのかもしれないが、ぼくはそのささやかな価値観を壊されることをひどくおそれる。


台風11号が直撃しているいま、そんなことを思うのは、窓に打ち付ける激しい雨の音のせいだろうか。