なぜこの本を読もうと思ったのだろうか。
書評で紹介されていたような気もするが、もしかするとこの作者の別の作品だったかもしれない。
読み始めは、よくできているけれどもアメリカの小説にありがちな“ひねりの利いた知的な表現”を多用した作品だと感じた。
表現にひねりが利きすぎて、少しばかりうんざりする気持ちもなくはなかった。
それでも、8つ収められた短編の半分くらいを読んだころには、この短編集が全体として醸し出す作風にずっぽりととりこまれているのだった。
まあ、もともと“ひねりの利いた知的な表現”は好きなわけだし。
作者が旧ユーゴスラビアのサラエヴォ生まれじゃなければ、もう少し退屈に感じたかもしれない。
1992年にシカゴに滞在中にユーゴ紛争が勃発し、そのままアメリカに残ることを選んだという。
ちゃんとわかっていなかったしいまもよくわからないままなのだが、ボスニア・ヘルツェゴビナとかコソボとかそういう地名は記憶に残っている。
ちょうど冷戦が終わって世界があらたな秩序を求めて混乱していた時期だろう。
日本に暮らしているとピンと来ないのだが、それはもう恐ろしいほどの血が流れ、昨日までのご近所どうしが対立しあい、憎悪が憎悪を生むようなそんな時代背景。
小説の中ではとくにその描写に力が注がれているわけではないのだが、だからかえって人間の生き方に拭い去ることのできない影を落としたあの混乱の影響が行間から伝わってくるのだろう。
ユーゴスラビアを祖国とし紛争時には海外に留まっていた作家が異国で作家として暮らす私小説のようにも思えるし、残酷な経験を素材に想像を膨らませた寓話のようにも感じられる。
もちろん、ノンフィクションの私小説なんて存在しないわけだから、小説家が小説家を描こうとするとどうしても私小説っぽくなってしまうしかないのだが、詩のような凝った表現と、客観的なユーモアと、青臭く尖った苛立ちと、家族や友人たちへの素直じゃない愛情が、文化の壁を越えてこころに触れてきた。
ちょっと気にかかることがあるとすれば、ぼくがこの作品をよいと感じた理由が、貴重な経験を持つ作者がそのことについて書いた作品だからかどうかということだ。
もしそうだとすると、我ながら短絡的で、自らの感受性にとって重大な問題であるかもしれない。
なぜならば、ぼくが常々関心を抱く人間の普遍性というものは、非日常のなかにではなく日常のなかにこそ見出せるはずだからだ。
――愛と障害――
アレクサンドル・ヘモン
訳 岩本正恵