ぼくたちの生きるこの世界は不可解なルールに支配されたゲームで、ぼくたちはルールを知らされないまま、また、ルールを知るすべを与えられないまま、そのゲームに放り込まれたプレイヤーなのだ。
カフカの審判。
久しぶりに再読を試みる。
今回は丁寧めに読んで、章ごとに記事を残してみようと思っている。
ぼくの世界観の大きな部分を占めるに違いないこの作品。
――誰かがヨーゼフ・Kを中傷したに違いなかった、なぜなら、なにも悪いことをした覚えはないのにある朝逮捕されたからである。
“変身”と共通する「ある朝目覚めるといつもと違う一日が始まった」的な出だし。
ぼくはこの一文から直ちにこの作品の世界に吸い込まれる。
なにも悪いことをした覚えがないのに逮捕される。
こんなおそろしいことはない。
逮捕の理由についてとっさに、誰かが自分を中傷したに違いない、と考えるのも異様だ。
中傷が逮捕につながる?
そんなことが考えられるだろうか。
スターリン時代のソ連やナチのころのドイツ、もちろんかつての日本でだって、こういうことはふつうに行われていた。
かつての日本?
いや、いまの日本でだって、正直なところ安心してはいられない。
カフカがこの作品を書いたのは、1914年から1915年にかけて。
1914年はサライェヴォ事件が起こり第一次世界大戦が勃発した年である。
スターリンやナチよりもずいぶん早い時期である。
この作品でカフカは、ナチス登場に象徴される次代の精神状況を予見したともいわれるらしい。
無論、こういった不可解な逮捕というのは、いつの世にもあったことだろうとは思うが。
平凡ではあるがそれなりの立場にいるらしい銀行員のヨーゼフ・Kが、朝、目覚めると、ふたりの監視人から、あなたは逮捕された、と告げられる。
理由を問うても、そんなことは我々は知らない、我々はただあなたが逮捕されたことをあなたに伝えるのが仕事だという。
Kは、これは誕生日の朝に友人たちが仕掛けた悪い冗談ではないかといぶかる。
向かいの家の窓からは老婆たちが好奇心に満ちた目でこちらをうかがっている。
上司に会わせろ、というK。
上司がそれを求めれば会うことになるが、いまはその時ではないという監視人。
終盤の〈大聖堂にて〉で語られる“法の門”の寓話を想起する。
やがて監督官なるものに呼ばれて隣室へ行くKと監視人たち。
隣室はタイピストのビュルストナーの部屋であるが、彼女は早朝から仕事に出て不在である。
いまそこには、監督官と3人の若い男たちがいた。
ようやく話のわかる者と会えた、と思ったKだが、やはり監督官もこの悪夢を払ってはくれなかった。
検事である友人に電話させてくれというK。
それに何の意味があるのかといぶかしがりながらも認める監督官。
だがそのやりとりの間にKは検事に電話する気をなくしてしまう。
そして監督官はどうぞいつもどおり銀行へ行ってくださいという。
呆気にとられるK。
――あなたは逮捕された、たしかに、しかしこのことは、あなたが職務を遂行することを妨げるわけじゃないんだ。日常生活もいままでどおりやっていっこうにさしつかえありませんよ。
さらにKを驚かせたのは、監督官と一緒にビュルストナーの部屋にいた3人の男が実は自分が働く銀行の下っ端の行員だったことを監督官に告げられたことだった。
そんなことにも気づかなかったなんて。
不可解な逮捕に遭遇しつつ、不可解な従順さでその逮捕に巻き込まれるK。
これは空想上のものがたりなのか。
いや、だれもがきっと、このものがたりを経験しているはずなのだ。
中島敦さんの“山月記”にこんな一節がある。
――全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には分らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
――審判〈逮捕〉――
フランツ・カフカ
訳 中野孝次