徹底的に唯心論。
感覚や肉体は純粋な魂の思惟を妨げるもの。
哲学者は、ただひたすらに、感覚や肉体の呪縛から魂を解放することを欲する。
しかし生きている間は、きわめてそれは難しい。
なぜならば、生きている以上は肉体のメンテナンスをしなければならないから。
肉体が病気になると、ますます純粋な魂の思惟が妨げられるから。
一方、死は、魂と肉体とを分離するもっとも適切なイベントである。
魂と肉体の分離、それは魂の肉体からの解放と似ている。
つまり、肉体の呪縛から魂を解放し、純粋な思惟を欲する哲学者にとって、死とは願ってもないイベントなのである。
ならば、哲学者は自ら死すべきか。
否。
肉体を魂から解き放つ準備が整っているものにだけその資格がある。
だれがその資格を認めるか。
神である。
自分で決めるのではない。
だからソクラテスはいう。
もしあなたが哲学者なら決して自分で死んではいけない。
神はその資格を認めるに足るものに死を与える。
神が死の資格を与えてくれるまでは引き続き哲学しなければならない。
私には、このたびの裁判の結果であるこの刑死のイベントが、まさに神が与えたもうた私の死の資格なのだ。
私が魂を肉体から解き放つ準備ができているものと認めてくださったのだ。
だから私は喜んで死を迎えることができる。
迎えが来るまで生きて準備をすること。
それが哲学者のあるべき姿である。
あまりにも唯心論に過ぎるという気がしないでもないが、ここまで徹底的に肉体や感覚を否定するっていうのも、あんがい気持ちのいいものでもある。
ぼく自身は、唯心論に傾く時期を過ぎて、魂と肉体、心と身体、もっといえば、私と世界、の調和に魅力を感じるお年頃なのであるが。
いずれにしても、ソクラテスの最期っていうのは、ぼくのもっとも憧れる死のあり方だ。
もうこの世でやることはやった、満足した、だから、はいみなさんさようなら、って感じで逝けたらいちばんいい。
ほかにも、魂が不滅であることの証明とか、ソクラテスが夢想する冥界のイメージとか、そういうのもたのしい。
魂は不滅なんだから、常に善くあるようにメンテナンスしていないと、冥界での期間を終えてまたこちらの世界に戻ってきたときに、残念な生き方になってしまうよ、っていうのは、若干、ニーチェの永劫回帰の発想に似ているような気もする。
ニーチェは徹底的に、ソクラテスあるいはプラトンのイデア論、ものそのものの存在という考え方を批判していたけど。
ともかく、ソクラテスと仲間たちがまじめに議論する雰囲気が実にうらやましい。
もっとも、ソクラテスの仲間たちの、ソクラテスからの説得され方といったら、従順でかわい過ぎるところもあるのだが。
2400年前の、優雅に考えながら生きるひとたちの集まりに憧憬。
――パイドーン――
プラトーン
訳 池田美恵