たぶん10年くらいぶりに再読。
当時のぼくがなにを思ってこの本を読もうと思ったのかはいまとなっては不明。
ニーチェも1冊くらいは読んでおくべきかも、ってノリだった可能性が高い。
なぜ“ツァラトストラかく語りき”とか“善悪の彼岸”とかでなかったのかといえば、きっと本が薄かったからだろう。
もしかしたら、裏表紙の「ニーチェ最高の入門書として、また風変わりな自伝としても読むことが出来る」というコメントに背中を押されたのかもしれない。
ともかく、夏の終わりごろからちびちびと再読し始めたのだが、10年くらい前の初読のときと同じで、あらかたちんぷんかんぷんでありつつも、その迫力に思わず笑みがこぼれる。
なんとなく元気になれるような気もする。
エネルギッシュ。
勢い。
副題は、“人はいかにして自分自身になるか”。
だからといって、自分探しの方法が書いてあるわけではない。
強いていえば、神だかなんだか、いるんだかいないんだか、というかいないんだけど、そんなものに影響されて生きるなんておかしい、天国とか彼岸とか形而上とかイデアとか、あるんだかないんだか、というかないんだけど、そんなものを想像して生きるなんておかしい、いまここ、あるがままの現実、それを肯定して生きるのがあたりまえ、ってそういう文脈から、自分自身になるってことなのかな。
“この人を見よ”の「この人」はニーチェ自身のこと。
全編に自信がみなぎっている。
目次に並ぶ各章のタイトルからして大上段。
“なぜ私はかくも賢明なのか”、“なぜ私はかくも怜悧なのか”、“なぜ私はかくも良い本を書くのか”、“なぜ私は一個の運命であるのか”。
すごいでしょ。
で、このみなぎる自信は、ユーモアを含んだ大げさな表現にも思えるし、世間の耳目を集めるためにあえて過激に表現しているようにも思えるし、あるいは、この作品の完成の翌年である1889年に40代半ばで発狂した前触れでほんとうに自らを超人だと思っていたようにも思える。
私は素晴らしい人間だが、誰もそれを理解できる者はいない、同時代人だけでなく、未来もまたそうである、しかしそれでいいのだ、みたいな表現が随所に出てくる。
また、私の素晴らしさを理解できもしないくせに、なんとなく理解した気になって、私を崇拝するものも未来には現れるかもしれないが、私はたてまつられるのはご免である、みたいな表現も出てくる。
この本では、有名な“神は死んだ”とか“永劫回帰”とか“超人”とかいうことにはほとんどまったく触れられていないが、それでも、ニーチェが、当時のドイツを支配していたキリスト教的道徳に、縛られていながら縛られていると気づかずに生きている人々に対して、もっと自由になろうぜ、価値の根本転換をしようぜ、って言った論理の展開がよくわかる。
ヴァーグナーに対する偏愛と可愛さ余って憎さ百倍とか、母と妹への異常な攻撃とか、むちゃくちゃなところもあるのだが、そういうところも含めて、愛すべき人間、ニーチェの姿が浮かび上がってくる。
往々にして、激しく他者を攻撃するひとは、心がデリケートで傷つきやすかったりするものだが、ニーチェもそうだったような気もするし、そうではなくて本気で自分の考えを信じていたような気もする。
どちらにしても、1888年のニーチェが現在の世界を見たらどう思うだろうか、っていうのもちょっと聞いてみたい気がする。
予想通りだ、っていうかもしれないし、なんだこりゃ、っていうかもしれないし。
さて、10年経っても、ニーチェ入門書的なこの1冊だけしか読んでいないというのもあれだし、来年はツァラトストラにでもチャレンジしてみようかな。
――この人を見よ――
フリードリヒ・ニーチェ
訳 西尾幹二