雑誌FRaUでの川上未映子さんと穂村弘さんによる“女の人生を決める本31冊”という対談で紹介されていた本。(この対談はWEBでも読める。)
穂村さんが紹介している二階堂奥歯さんの八本脚の蝶も読みたいところだが、まずは川上さんが紹介している高野悦子さんの二十歳の原点を読んだ。
読んでいるあいだの1週間、高野悦子さんの死までの半年間に寄り添うような気持ちで過ごした。
昭和44年1月2日から昭和44年6月22日までの日記。
高野さんは昭和24年1月2日生まれ。
昭和42年6月24日未明に鉄道自殺。
二十歳の誕生日から自殺までの半年間の日記が綴られている。
立命館大学での学生運動と恋。
いろんな文章を読んできたものの、結局のところ学生運動っていうのがいったい何なのかよくわからないぼくなのではあるが、もしもこういう時期に学生をしていなかったら、高野さんはその後も幸せに生きていけたんじゃないか、って思う。
現代に生きるぼくには、学生運動へのこのこだわりがよくわからない。
ましてや、もうすっかり体制側の人間になっているぼくだからなおさらだ。
代替可能な安価な労働者あるいは資本主義体制の担い手を育てるという大学のシステムに抵抗する。
本当か? と思う。
まわりがやってるからやってただけじゃないのか? って疑いたくなる。
機動隊に対する敵意。
いや、機動隊を国家権力の象徴とみなすのはどうかしてるのでは?
だって彼らだって、ただの労働者でしょ?
という無責任なぼくの疑問などはナンセンスなのだろう。
高野さんは自分のあり方について、苦悩煩悶を繰り返す。
時代が違えばきっと素敵なひとになっただろうが、だんだん様子がおかしくなってくる。
恋の悩みなんかは、現代の奥ゆかしいタイプの女の子とまったく同じだろうと思うんだけど、まあ、時代が時代だからか、理屈っぽいところが痛々しい。
まあ、若い恋はいつだって痛々しいものだけれども。
文章がとても生き生きしているから、読んでいて惹きこまれる。
それにしても6月22日の最後の詩があまりにも静かに美しい。
そもそも彼女は本当に自殺だったのか?
事故っていう線はないのか?
たしかに、日記の中でしばしば死にたい死にたいと書いているけれども、なんだか飲みなれない睡眠薬を飲んでしまったせいで判断能力が一時的に衰えてしまったのではないかという気がする。
ただただもったいないと思う。
なんでそんなことで、と思う。
でも、当人にとっては、生死を懸けた重大なことだったんだろうな。
ぼくはもうすっかりおとなだから、この本を読んで、自殺の魅力に心を奪われることはないけれども、思春期のひとが読んだらちょっと危ないかも。
そんな危うい魅力をたたえた本である。
けれどもこれを読むなら、必ず悦子さんのお父さんである高野三郎さんによる総括もきちんと読むべきだ。
不自然とも思えるくらい冷静に客観的に悦子さんの心理を分析している。
そこにあるのはただただ娘の心情を理解できなかった父の哀しさ。
この本でいちばん美しいのは、お父さんによるこの“失格者の弁”であるような気もする。
でもね、ぼくはお父さんに教えてあげたい。
平野啓一郎さんの提唱する分人主義を。
日記に書かれていることが娘さんの心情のすべてだとは限らない。
日記の中の悦子さん、家族と過ごす悦子さん、学校の友だちと過ごす悦子さん、どれも本当の悦子さんだった。
だから、お父さんは、きっと、失格者なんかじゃ、ない。
――二十歳の原点――
高野悦子