私の居場所 | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

「身一つで、とよく言うけど、どこに行っても、結局お前の最後の居場所は、その立派な体なんだからな。今度こそ大事にしろよ。」


いま読んでいる平野啓一郎さんの「空白を満たしなさい」に出てくる文章。


まだ途中なので、このことばが重要な意味を持っているのかどうかもわからないのだが、ここを読んで思ったことがある。


体は私の居場所。


この考え方には、これまでにも幾度となく触れてきた。


川上未映子さんの「世界クッキー」というエッセイ集のなかの「わたしを泣かせる、小発見」では、幼きころの未映子さんが、スーパーかどこかに置いてあったロボコンの乗り物に乗り、そのロボコンの腹部のなかからロボコンの開口部を通して外を見たときに感じた、ロボコンのなかの「私」、さらにロボコンのなかの私の体のなかの「私」を発見する場面。


あるいは、町田康さんの「告白」という小説のなかで、主人公の熊太郎が、獅子舞のなかに入って、獅子舞の目の部分の開口部を通して外を見たときに感じた、獅子舞のなかの「私」、さらに獅子舞のなかの私の体のなかの「私」を発見する場面。


はたまた、プラトンさんの「アルキビアデス篇1」のなかで、ソクラテスがアルキビアデスに諭した、ものを使う者と使われるもの、たとえば靴をつくる者とその者に使われる道具は別の物、さらに靴をつくる者とその者に使われる手や眼などの体は別の物、つまり靴をつくる者とは体を使う者のことであるという理屈。


「私」とは体を含まない何か、それは心と呼ばれたり、魂と呼ばれたり、精神と呼ばれたりするけれども、ぼくにとっては呼び方はどうでもよい。


まさに「私」と言いたい気分。


「私」と体は別の物であるという考え方。


その考え方からすると、体というものは単なる「私」の入れ物であるということになる。


入れ物だからって、いい加減に扱ってよいわけではない。


「私」にとって居心地のよい入れ物であるに越したことはない。


たとえばそれは、快適な部屋であったり、イカシタ車であったりするわけだ。


快適な体、イカシタ体の方が「私」はうれしいに決まっている。


そこで冒頭の平野啓一郎さんの文章。


体は「私」の居場所。


そういうふうに考えれば、居場所のないひとなんていないことになる。


どれだけ社会から疎外されていたとしても、体という居場所は常に「私」には用意されている。


だからその居場所をできるだけ快適なものに維持していきたいところだけど、あんまり居心地がよすぎると、今度は、快適な部屋やイカシタ車から出られないように、自分の体に引きこもってしまうことにもなりかねない。


ほどほどに、ということか。


ところで、「私」と体は別の物、という考え方の対極に、「私」は宇宙そのもの、というのがある。


この考え方だと、「私」とあなたの区別自体が存在しないことになり、「私」はあなたであり、あなたは「私」である、ということになる。


あなたの苦しみは「私」の苦しみそのもの、というのはそういう考え方の延長にある。


さらに、「私」とあなたの区別どころか、「私」と自然の区別さえも存在しない。


なにしろ「私」は宇宙そのものなんだから。


だから、地球の大気が汚染されるのは、ほかならぬ「私」が汚染されているということになり、その汚染原因でさえも「私」自身であったりするわけだ。


なんだか、そろそろ、自分でもまとめることができなくなってきた。


「私」について考えるといつもこういうことになる。


でも。


とてもたのしい。