うつと過剰適応 | (本好きな)かめのあゆみ

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香山リカさんの考え方が結構すき。


新聞の連載でこんなことを書いていた。


その1


家族など近しいひとを失うと、ひとは落ち込む。


これまでは、その落ち込みは、医学的にはうつとは診断しないことになっていたが、最近、アメリカの学会で、うつの診断の範囲を拡大し、こういう場合もうつと診断できるようにしたらしい。


うつと診断すると、うつのための薬を処方できるようになる。


逆にいえば、これまでは家族など近しいひとを失って落ち込んでいるひとにはうつのための薬は処方できなかったということ。


薬が処方できるようになるなら患者にとってはメリットじゃないの、と思うかもしれないが、香山さんはこういう。


私は、家族など近しいひとを失って落ち込んでいるひとにうつの診断はしたくない。うつという診断をするということは、あなたはうつという病気ですよ、ということ。家族など近しいひとを失って落ち込むことは、果たして病気なのだろうか。時間が解決してくれるひとのこころの機微みたいなものを病気扱いしてよいのだろうか。


なるほど、と思う。


しばしばいわれることだが、医療関係者や、製薬関係者が、みずからの利益のために、これまで病気とは認定されなかったさまざまな症状を、病気として認定して世間に広めているのではないか、という考え方がある。


これは、医療関係者や製薬関係者を陥れるためのまことしやかな誹謗かもしれないし、実際にそういう面もあるかもしれない。


真偽のほどは、ぼくにはわからない。


これまで、病気と認定されないことによって社会的に理解を得られず、苦しんでいた患者がいるとすれば、病気の認定の範囲が広がることは、正当であるともいえる。


とにかく、光の当て方によっては、悪意にも善意にも受け取れる問題であるというのは、頭にいつも置いておいた方が良いと思う。


その2


過剰適応ということばがある。


周囲から期待される自分の役割に過剰に適応してしまうこと。


たとえば、もともと控え目で自己主張も得意でない学生が、就職活動を始めると少しずつ積極的に授業で発言するようになる場合がある。


それぐらいなら、ああ、就職活動を通じて成長してきたな、ってうれしく思えることだけれども、やがて、授業中なのに先生に対して面接官にするような挨拶をしたりするようになる。


就職活動中の学生はこうあるべき、ってロールモデルに、とことんなりきろうとする。


この例はもしかしたら、単にTPOを使い分けられないどんくさいひと、ということになるかもしれないけど、たとえば、良き妻、っていうロールモデルがある。


昔の良妻賢母のことをいうつもりはない。


いや、いまの良き妻、っていうのもなかなかにつらそうなのである。


妻や母であるだけでなく、女として魅力的であり続けなければならなかったり、こどもにキャラ弁をつくり続けなければならなかったり、良き妻の流行を追い求めるという役割ってありそうな気がする。


そういうつらそうな役割に、過剰に適応しようとしてしまうと、過剰というそのことば通り、やはり過剰なのであるからいずれ無理がたたって破綻する。


自分が破綻するのもつらいけど、香山さんはさらにこういう。


過剰適応するひとは、得てして、自分がこんなに努力しているんだからという理由で、それをしないひとに対して厳しく接しがちになってしまう。


なるほど、と思う。


ぼくなんかも、自分でいうのもなんですがまじめなタイプなので、ついつい周囲の期待に応えようと、環境に過剰に適応しようとしてしまいがち。


ぼくの場合はそれをひとに求めることはしないけど、自分に対する厳しさを他人にも求めるひとだってしばしばみかける。


そういうひとは、組織やひとのコミュニケーションにとって、阻害要因になる場合だってある。


ぼくが思うには、周囲の期待に応えようとする気持ちはもちろん大事なんだけど、それよりも自分が納得できるかどうか、納得が難しくても、少なくとも自分なりに妥協できるかどうか、っていうことが自分の行動指針になるんじゃないかな。


過剰適応、っていうのは要注意だな、って思った。