仕事を終えて地元の駅に降り立った夜、月の隠れた暗い空を見上げて、この地球のどこかで絶望に打ちひしがれている誰かのことを思う。
名も知らず、出会ったこともない、そんな誰かのことを。
ぼくのいるここと誰かのいるそことが、ひとつの空でつながっているからそんなことを思ったのかもしれない。
明日の不安に押しつぶされそうな日々がいつ果てるともなく続くのならば、ひとはどうして生きることができるだろう。
ひとには希望が必要だ。
今日よりも明日が、今年よりも来年が、少しでもよくなるようにと願っている。
少しでもよくなるようにと頑張ることだってできる。
希望があれば前を向いて暮らしていける。
希望をもたないひとは、希望をもつひとに比べて、身体の免疫機能が弱まるという話もある。
希望をもつひとはとにかくなんだか元気にみえる。
希望は自分でもつこともできるが、誰かに与えてもらうこともできる。
誰かに与えることだってできる。
では、ぼくは希望をもっているだろうか。
考えてみる。
あるような、ないような。
今日よりも明日が、今年よりも来年が、少しでもよくなるようにと願っているかと問われると、そうだと答えるけれども、べつにいまのままでも構わないといえばいえるような気もする。
決していまの自分に満足しているわけでも充実しているわけでもないけれども、希望に頼らなくても生きていけるひとでありたいという欲求も強いのだ。
希望がないと生きられないひとではなく、希望がなくても生きられるひとでありたいという欲求。
もちろん、未来に向かってどんどん悪くなっていってほしいとは、さすがにちっとも思わないのだが、未来への希望を自分の生きる動機にはしたくないという天邪鬼な考え方にも魅かれるのだ。
どんな環境に放り込まれても、どうにかこうにかその環境に適応していく。
たとえいつまで続くかわからない不安な毎日であったとしても、その環境に適応してたくましく生きたい。
不安を不安に思わない力強さ。
希望なんてなくっても、目の前の不安の渦に飲みこまれずに、ただひたすらに、自分の生命のエネルギーを燃焼させられるひとになりたい。