自殺と自死 | (本好きな)かめのあゆみ

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自殺と自死。


自殺という言葉は遺族の悲しみを増幅させるとかで自死に置き換えるムーヴメントが一部で起こっているらしい。


ぼくはもともと両方を使い分けたい派。


自殺には追い詰められ感が漂い、自死には自由を感じる、っていうのはあくまでもぼく個人の考え方に過ぎないわけだけど。


自死には、人生もうやりきった感とか、ここから先にはたいしておもしろいこともなさそうだからここで下車します、みたいな気配を感じる。


できればぼくの死は自死を選びたい。


プラトンがパイドーンで描いたソクラテスの死のように、弟子たちに囲まれてお気に入りの議論なんかをひとしきりしたあとに、一息に毒をあおりたい。


ってソクラテスは自死ではなくて死刑だったわけだけど。


人生の勝ち逃げ、をしたいタイミングにもこの自死は魅力的でもある。


もうめいっぱいたのしみました、この先はこれまでのたのしみのために先送りしてきた負債の返済を迫られるので、ここで降ります、みたいな。


いっぽうで、人間はそんなに都合よく、きれいなタイミングで死んではいけない、とも思う。


ぼろぼろになっても、へろへろになっても、みじめになっても、動物としての死が向こうからやってくるまでは、自分で自分に死をあたえるなんてことは許されていないような気もする。


まあ、社会規範が自死なんて許さないので、ぼく程度の人間では自死を選ぶことは叶わないし、きっといよいよそのときがきたら、選べても選ばないだろうけども。


ところで自殺について。


自殺、っていうと、自分を殺す、ってことで、殺される自分と殺す自分の2人が存在する、って考えてもいいんじゃないかな。


で、遺族は殺されたそのひとを悲しむことはできても、殺したそのひと(同一人)に対してどういう感情を抱けばいいのか戸惑う、ってことなのかな。


殺されることを防ぐ手立てはなかったのか、とか、殺すことを防ぐ手立てはなかったのか、とか。


自分で自分を殺すっていうことは、もしかしたら、誰かが誰かを殺す、っていうのとある意味で構図が同じなのかもしれない。


殺される自分はできることなら殺されたくなかったわけだし、殺す自分は殺される自分に対して殺さずにはいられない動機があったのだろうし。


殺す殺すと繰り返し書いてきたら、なんとなくこの字でコロスと読むのは不自然なような気が起こってきた。


ゲシュタルト崩壊。


脱線回復。


自分で自分を殺すっていうことは、人間存在の尊厳を踏みにじる失礼な行動だともいえる。


あなたはあなたのものではない、あなたは人間存在の尊厳そのものなのだ、という議論にも一顧の価値はある。


あなたはあなたを自由に差配することができると思っているかもしれないが、あなたごときが人間存在の尊厳そのものであるあなたを脅かすことなどしてはいけないのだ、っていう考え方。


さて、ぼくたちは、自分を殺したり、自分で死んだりしてもいいのだろうか?


そして、その理由は?