文庫本で3ページ余りの超短編
掟の門
にコダワッテミル。
初読のとき
既視感がある
と思った。
そのときは
既視感なんて分かりきったこの世界ではよくあること
なんてかるく受け流していたけれど
なんのことはない
何度も読んだことのある長編
審判
のなかにこのくだりが載っていた。
岩波文庫の
カフカ短篇集の巻末
編訳者の池内紀さんによる解説
で知った。
そこで
審判
の終盤
大聖堂にて
を読み返してみる。
あったあった。
掟の門
に瓜二つの挿話。
既視感の正体見たり。
こりゃあ何回も読んでるわ。
ていうか何度も読んでるはずなのに覚えていないものだね。
審判
のなかでは
法の入門書に記されている話として
教誨師がKに聞かせるていになっている。
その話に強く惹きつけられ
自らの境遇と重ねて解釈しようとするK。
それを教誨師はたしなめる。
いわく
先走ってはいけない
ひとの意見を吟味もせずに受け入れるものではない
おまえはこの書物に十分な敬意を払わず勝手に作り変えている。
これはぼくの読書のやり方にもよくあてはまっていることだったりして
ぎくりとする。
書物に対する敬意と解釈。
自分で勝手に想像して膨らますのも
読書の楽しみではあるのだが
書物に対する十分な敬意を忘れて
勝手に自分に都合よく解釈していることなんて
日常茶飯事だ。
Kもやはり先走って
この話に独自の解釈を得ようとやっきになる。
それを見透かすように
この話に対する学者のさまざまな見解を教誨師は紹介する。
ときには正反対の見解をも。
同じ話でも光の当て方によってまったく異なる解釈が
矛盾することなく成り立つ。
そして教誨師はこうも言う。
おまえはそれらの見解を尊重しすぎてはいけない
不変なのは書物であって、見解などというのはしばしばそれにたいする絶望の表現にすぎないのだ。
こんな教誨師とKとのやり取りが実にスリリングなのだ。
掟の門
を読んだ後
ぼくもさまざまな解釈を試みたが
それらがいかに陳腐な想像にすぎなかったかを
思い知らされるような
徹底した論理展開がなされる。
ああいえばこういう論理の
どれもこれもがもっともらしい。
これは書物に限った話ではないとも思う。
世の中の解決が難しい問題は
それぞれの立場ごとにごもっともな言い分が用意されている。
歴史的に古くからある問題ほど
理論的には双方とも崩しがたい。
歩み寄りとか
バランスとか
そういうことにしか問題解決の余地はないようにも思われるが
どちらの立場の言い分にもそれなりに完成した堅強性があるので
互いの説を曲げることは容易ではない。
先入観を捨てて純粋な目でみるなんて
ほとんど不可能だとも思える。
結局のところ
この話にわかりやすい結論なんてなくて
相変わらず煙に巻かれたような終わり方なんだけど
想像力はかなり刺激してくれるよね。
カフカさんの作品のそういうところが好き。
―掟の門―
カフカ
池内紀 訳
―審判―
カフカ
中野孝次 訳