好きな場所がいくつかある。
元気満々なときよりも
ちょっと元気がなくなったときに訪れたくなる。
少し前に不調な時期があって
行きたい気持ちが湧いてきていたんだけど
そんな時に限って行けるタイミングがなかった。
ようやく行ける時間ができたのだけど
その頃にはなんだか元気が戻ってきていた。
そういうもんである。
考えてみれば
元気がないときには時間もなく
時間があれば元気も出てくる
ってことなのだろうから
あたりまえといえばあたりまえである。
とはいえ
しばらく訪れていなかったので
先日行ってきた。
高野山。
3年ぶりくらいかな。
別に空海さんに特別な信仰を寄せているわけでもないのだけど
なんとなくあの空間が好きなのである。
土地の霊力に清められる感じ。
1200年前に空海さんが開いた高野山。
あのエリアには何かがあったに違いない。
それはスピリチュアルな幻想ではなくて
気候や温度、湿度や気圧、地形や植生みたいな何か。
いずれにしてもそう思い込むことによって
なんだか元気になれるのなら
それはそれでありがとう。
訪れた日は曇っていて
少し肌寒かった。
完全に都会の薄着で行ったものだから
羽織るものを持っていくべきだったと反省。
ぼくは
壇上伽藍の根本大塔だとか
金剛峰寺
苅萱堂などにはあまり興味がなく
高野山を訪れた時にはとにかく
奥之院を目指す。
一の橋から参道を歩く。
杉の老木が立ち並ぶその空間には
1200年前から変わらない
清らかな空気と時間が漂っているように感じる。
数々の墓碑。
まじまじと人様のお墓を見るのは躊躇われるので
ぼうっと眺める程度なのだけど
聞いたことのある武将や名家の墓碑が
連なっている。
苔むしているところが遥かな気持ちを呼び起こさせる。
ときおり
どこそこのだれそれ
みたいな特に名も知らぬ人の墓碑や
およそ最近建てられたに違いないような起業家の墓碑も見受けられ
ここにお墓を設置するにはどういう手段でいくらくらいかかるのだろう
などと無粋な想像をしてしまう自分が情けない。
でもここにお墓を置けたらいいだろうな
あるいは自分の先祖のお墓がここにあったら
ちょっと自慢できるかもな
なんて考える自分がやはり小さく感じる。
むかしはついつい
みろく石
を持ち上げたりしてちょっと粋がってみたりもしていたけれど
いまはやらない。
燈籠堂まで辿り着き
ゆらめくろうそくと線香の香りに包まれる。
帰りにはバスツアーのみなさんとすれ違い
ガイドのアナウンスを横に聴きながら
参道をあとにした。
ここに来る前の時点で
既に元気が戻っているのでなんとも言えないけど
やっぱり高野山はぼくの好きな場所のひとつだ。
ちなみに
2015年に高野山は
開創1200年を迎えるそうで
現在
伽藍中門を再建中とのことである。
今度来るときには
高野山町石道コースのハイキングでもしようかな。