態度を留保する自分に苛立つ | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

別にぼくが意見を求められている

わけではないけれども

TPP

とか

原発

とか

大阪都構想

とか

賛成と反対に分かれる問題について

自分なりの態度を決められないことが多い。


お昼ごはんを

中華にするかイタリアンにするか

という問いなら

どちらでもかまわない

という選択で問題ないと思うが

先ほど例に挙げたような問いだと

どちらでもかまわない

ではかまわなくない。


でも両極端の2つからどちらかを選べ

っていわれるのがもっとも苦手な分野だ。


どちらでもない選択肢はないのか

って探したくなる。


賛成派と反対派のそれぞれの意見をきくと

どちらの意見もごもっともだと感じてしまう。


逆に

どちらの意見も胡散臭く感じてしまうときもある。


結局ぼくが選択するのは

内容での判断ではなくて

意見をいっている人の人柄の印象で

好感を感じる方だったりする。


最悪の選択方法だ。


もちろん

人柄をみる嗅覚みたいなものは

直感的でもかなり信頼性が高いともいえる。


でも

そうやって直感で選んだ後まで

その選んだことに対して責任を感じて

行く末を見守っているかというと

決してそんなことはなくて

結果が出る頃には

どちらを選んだのかすら

忘れてしまっていたりする。


安保闘争っていうのが

どういう社会的なムーブメントだったのかは

知らないけれども

今のこれらの問題だって

きっとほんとうはもっと大きな国民的議論に

なっていなければならないのではないか。


日々の生活に追われて

大きな問題にかまってられない人たちが増えて

喜んでいるのはどこのどなたか。


ぼくたちは

そういう意図でつくられた

ものいわぬ大衆。