記憶におけるあれこれ | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

パソコンなどでは

データを削除して

ごみ箱を空にしても

その道に詳しい人ならば

削除したはずのデータを

どこかしらから探し出して

再構築して

復活させることができるという。


コンピュータは

人間の脳の機能を参考にして

開発されているともいうから

あたりまえのことかもしれないのだが

人間の記憶というものも

完全に忘れ去るということはなくて

記憶は残っているけれども

容易には思い出せなくなっている

ということではないか。


生まれてから

あるいは母胎のなかに生を受けてから

五感を通じて

脳やなんかに送られた情報は

決して消え去ることなく

死を迎えるまで

蓄積されているのではないかと思う。


記憶力のよしあしに差があるのは

それを記憶の奥底から呼び戻す能力あるいは技術の

差のせいではないか。


そんなふうに思ってみる。


ある日突然

かみさまからの贈り物でもあるかのように

浮かんでくるアイデアなんかも

実はもともと自分の中に蓄積されていた情報が

ふとした弾みで思い出されただけではないのか。


それならば

これまで得てきたあらゆる情報が

記憶の奥底に眠らずに

常に自らコントロール可能な領域にあってくれたらいいのに

なんて思うかもしれないが

それはそれできっと不便なんだろうと思う。


ときどき

記憶力が凄すぎて

五感から入ってくる情報のすべてが

あたまにこびりついてしまうという人の話をきく。


それはきっとつらいことなんだろう。


人間が自己保存の方便として

不都合な情報を認識外に放り出したり

都合のよい情報につくりかえたりしているからこそ

何食わぬ顔で日常生活を過ごせているのだろう。


そうでもしないと

いたたまれなくなるような経験は

やまほどあると思う。


人間は

世界から受けているあらゆる情報を

瞬間瞬間にあまねく吸収し蓄積している。

意識している情報は

いまの自分に必要なほんのわずかなことだけで

けれども無意識の領域には

宇宙の広さにも匹敵する

膨大な情報が蓄積されている。


そんなふうな考え方を支持したいと思うのが

ちかごろのぼくのトレンド。