私とは何か | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

岩波新書です。


ぼくの愛読書といってもいいと思います。


平易なことばで書いてくれてはいるのですが

それでも抽象度が高いので

容易には読みこなせず理解できず

何回も読んでいるものの

未だに意味がよく分かりません。


けれどもぼくを惹きつけてやまず

折に触れ何度も手にとって

ページを繰ってしまうのです。


今回の再読にあたっても

あいかわらずの難解さで

眠る前に読もうとすると

1ページも読まぬうちに

眠りに入ることができたこともありました。


抽象の世界から

夢の世界に入るなんて

贅沢だと思いませんか。





さて内容です。


そのものずばりタイトルどおり

「私とは何か」をめぐる思索の冒険です。


表紙裏から引用です。

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「我は我なり」という。その「我」とは一体どういう存在か。自身の立つ場所しか眼に入らず、その情念に身を任せてはいないか。あるいは反対に自分を失って周囲におもねることばかりしてはいないか。そして自分を無にして「他者」に開かれるとき何が起こるのか。西田、漱石、ルターなど東西の例を検証しつつ「私とは何か」という問題に迫る。


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繰り返し語られる「私は、私ならずして、私である」のフレーズ。


まず

「私は」という私がいる。


そうではあるものの

その「私」への「自己執着」的で粘着的な固執から抜け出し

ひとまず「私」を「世界を超え包む限りない開け」に解き放ち

「私ならずして」という状態に身を置く。


しかし

決してそこで「自己喪失」や「無我」の状態で終わらず

あらためて

「私である」と甦る。


「私ならずして」を経たとき

「私」には

「私は、私である」ということ以上の

劇的な変化が起こっている。


たとえば

立っている「私」が

ひとまず座って「私」を無くし

再び立ち上がって「私」というとき

見えている世界は異なっている。

「私」の質が変化している。


立って「我」・坐して「我なし」。


ぼくのイメージではこうだ。


「ぼくは」と言ったその次の瞬間

ぼくの視点のカメラはぼくの瞳から離れ

ぼくとぼくの周りを俯瞰し

ぼくとぼくの周りを映したままカメラはどんどん上昇し

ついには宇宙の果てまで到達し光だけになる。

そして今度は逆転し

同じスピードでカメラはどんどんぼくに近づき

ついにはぼくの瞳にぼくの視点として戻ってくる。


いつもそうとはいかないまでも

こういう経験は多くの人に共通かもしれません。


ルターさんの

「ここに、我、立つ」


山川登美子さんの

「しずかなる病の床にいつはらぬ我なるものを神と知るかな」


種田山頭火さんの

「どうしようもないわたしが歩いている」


尾崎放哉さんの

「咳をしても一人」


片山広子さんの

「待つといふ一つのことを教えられわれ髪白き老に入るなり」


西田幾多郎さんの

「人は人吾は吾 吾はわが誠を尽くすより外なし」


それぞれの「我」「われ」「吾」を検証します。


どなたもこなたも

「私」ということを

簡単に言っていないことが分かります。


デカルトさんの

「コギト・エルゴ・スム」

「我考う(惟う、思う)、故に我あり」

についても

それ自体も「自己執着」による

「思い込み」に過ぎないのではないか

と検証します。


西田幾多郎さんの

「疑うにも疑いようのない直接の知識」

であるところの

「ただ直接経験の事実」

すなわち

「純粋経験」がとりあげられます。


「たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」

「「風がざわざわいえば<ざわざわ>」が純粋経験である」

と。


「私」について

突き詰めていくと必ず

「汝」の問題にぶつかる。


私と汝

の考察も興味深い。


「私」と「あなた」は

点と点ではなく

「場」である。


「場」とは平面的なあるいは目に見える場所ではなく

「世界を超え包む限りない開け」である。


そんな中に

個として屹立した私と汝が関係を持つ。


明確な「私」という「個」などなく

あくまでも「関係性」の中において浮かび上がる

連結点である

という考え方にも不十分性を見出す。


さらに思索は

「自己」と「自我」

あるいは

「自覚」と「自意識」へ展開し

さらに「無我」とは「私」のどういう状態か

という考察に向かう。


「無我」では飽き足らない。


そして最終章では

夏目漱石さんの

「私の個人主義」や

「則天去私」の背景に迫る。


「こころ」や「道草」の解釈も

おもしろい。


夏目漱石さんがロンドン在学中に悟ったこと。


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この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のないうきぐさのように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事に漸く気が付いたのです。

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-私とは何か-

上田閑照