ことばとか公式とか | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

たとえば

APPLE。


APPLEは

APPLEであって

りんごではない


と言いたくなるときがある。


誰かが

握りこぶしくらいの大きさの赤くて丸い果物を指して

APPLE

という。


それをみた誰かが

りんご

という。


そうして

APPLE = りんご

という公式が完成する。


それはたしかにそうなんだけれども

もとのAPPLEとりんごは

完全にイコールではないはずで

しかしこの公式の完成によって

微妙な違いの部分はないものとされてしまう。




たとえば恋愛に対して

積極的ではない男性がいて

あるとき

草食系男子

ということばを誰かがそれにあてはめる。


もともといろんなパターンがあったにも関わらず

草食系男子

という記号によって

似て非なる男性たちが括られる。


括られた側も括られた側で

ああぼくは草食系男子だったのか

とだんだんその括られた記号に自分を合わせていこうとする。


そうしていろんなパターンは失われ

記号に支配されるような格好で

本当に草食系男子という属性が生まれる。




たとえば

1+1=2


このあまりにもあたりまえの公式(数式?)。


1+1=2

と表示されると

もうそれ以上の意味が思い浮かばなくなるが

これを文章で説明しようとすると

簡単ではない。


というか

ぼくにはできないことがいま分かった。


1個のりんごにもう1個のりんごを加えると

2個のりんごになる

と言われればそれはそれ以外に言いようがない

と思われるがそもそも

2個とか1個とかの定義づけから疑問は溢れる。


まったく同じりんごなんてあり得ないわけだから

りんごが1個増えて2個になることを

1+1=2

で表現して良いのだろうか

と悩ましい。


1+1=2

という数式のせいで

本当はもっと広がりと奥行きのある世界が

貧しく画一化されているのではないか。


本当は

1+1=2

でないものが

なんだか似ているという理由だけで

その数式に押し込められてしまっているのではないか

あるいは

現象そのものが自らを数式にあてはめるために

型にはまらないものを削ぎ落としているのではないか。


たしかにこういったことばや公式のおかげで

ぼくたちの生活には秩序や便利がもたらされているけれども

あたらしいことばや公式が発見されるたびに

ぼくたちの生活は不自由になっているような気もしてくる。


世界がどんどん公式に合わせ始めて

小さくまとまっていこうとするように感じる。


ことばや公式からはみ出した

ニュアンスみたいなものを見落とさないように

暮らしていきたい。


たとえば

カップのアイスクリームのふたについている

アイスクリームとか

たい焼きの型からはみ出したところとか

そういうのを見落とさないように

食べていきたい。