この世で最も美しい音が出るヴァイオリンがある。
このヴァイオリンは誰に与えられるのがふさわしいか。
ヴァイオリンを愛しコレクトする資産家か。
否
最もこのヴァイオリンを用いて美しい演奏をすることができる
演奏家にこそふさわしい。
現実世界では必ずしもそういうマッチングにはなっていないが
こういう考え方には多くの人が共感するような気がする。
それぞれの道具にはそれにふさわしい使い手がいて
それぞれの道具と使い手は最適に組み合わされてこそ
道理に適っているといえる。
では
ぼくの身体は誰に与えられるのがふさわしいか。
もちろんぼくである
といいたいところだが
果たしてぼくは
ぼくの身体を最も上手に操ることができているのだろうか。
そう考えるとなんだか自信がない。
ぼくよりももっと上手にぼくの身体を使いこなせる人が
いるに違いないと思える。
明らかにぼくよりも上手にぼくの身体を操れる人が
目の前に現れたとして
あなたの身体を私に譲ってください
と言われたならば
ぼくはぼくの身体をその人に譲るのが道理なのだろうか。
譲らないといえば
それは道理を無視したぼくのエゴになるのだろうか。
そして
もしもそれが身体ではなくて心だとしたら
それも同じ理屈になるのだろうか。