今日は少しだけ僕の専門に近い、と言っても高校で何を習うかという話。

高校の生物の教科書と資料集、結構何でも書いてある。生命科学や生物学のあらゆる分野が公平に満遍なくのっていて、みごとに調和が取れている。その結果、今の生物学の研究の動向を周回遅れで知るのには良いが、読んでいて面白いと思う人は少ないだろうと思う。目次に生物多様性と調和とか書いてあると、レベルの高い皮肉だなと思うとともに、物と多の間に学会といれるとよりはっきりして、よいのではないかとおこられる。さて、前置きはどうでもいい。僕の質問はもう少しサイエンティフィックだ。

 現代の生物学は、一生懸命、生命の不思議を物理や化学の言葉で説明しようとしてきている。それは大成功をおさめつつある.いつの日か、それらすべてが、物理と化学の言葉で語られるときが来るだろう。すると、これまでの生物学はなくなり、物理と化学の一分野として生物学が新たに始まる日が来るだろう。医学も人の病気と正常の生物学と解釈すればよい。実際、今から150年も前のウイルヒョウという病理学者は、ヒトの体を細胞の集合と考えると、病気もそれぞれの細胞に起こった変化の結果であると考えられるという、細胞病理学を提唱した。これって現代医学の考え方そのものでしょう?全然古くないのだ。

さて、そういう日が来るとして、最後に残る生物学固有の問いはどういう問題でしょう?

 正解はありませんが、まず一つ遺伝がありました。子はなぜ親に似るのか。兄弟はなぜ両親とも似て非なるものなのか。これは大きな謎だったと思いますが、今やDNA配列という分子の言葉で語られています。遺伝を時間軸上に展開した進化論についても、日本人の業績ですが中立説によって数学的枠組みが出来つつあるようです。こう考えると、メンデル、ダーウィン、ワトソン、クリックの発見が生物学でとりわけ重要なこともわかります。それと脳と心の問題も最近進展が激しく、正解にいつ至るかはわかりませんが、正解はこの範囲だろうと思われるような所に落ち着くのではないかという気がしています。すると、他に何があるでしょう。僕は、死の問題(裏を返せば生の問題)が残るのではないかと思います。この分野に関しても、アポトーシスといってプログラムされた細胞死という新しい概念が生まれてきて大きな進展があったのですが、最後の一点、生と死の違いには行きついていないような気がします。生命とはコンパクトな空間の中で効率よく様々な化学反応が起こることだという考え方があります。死の瞬間はその効率よい化学反応が崩れる瞬間を言うのでしょうか。もっともらしいけど嘘くさい気もします。このあたり、何か新発見があれば高校の教科書で書いてあることもほとんどは物理や化学の言葉で(理論的には)書けるのではないでしょうか。