追悼・小松左京 | 作家・土居豊の批評 その他の文章

追悼・小松左京

追悼・小松左京
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この人の小説を読まなかったら、今の自分はなかったかもしれない、と思える作家が何人かいるが、小松左京はその一人だ。
なにしろ、自分が大阪芸大の文芸学科に入ろうと思ったのは、小松左京が教授陣にいたからなのだ。創作コースをもつ大学は、当時、大芸大と日大の二つだけだった。身の程知らずにも、作家を目指して大芸大に入ったのだ。自分の入学と同時に退任されて、みごとすれ違いで終った、という笑えないオチはつくのだが…。
小松左京の小説の魅力として、SF作品としてのスケールの大きさ、アイディアの斬新さ、未来予測の正確さ、などいろいろいわれるが、自分はどこに惹かれたかというと、その語り口である。
いわゆるハードSFの中には、科学的な正確さや、知識の量、アイディアの新しさに凝るあまり、登場人物があまりに類型的で、物語としては面白くない場合がある。
小松作品の場合は逆で、SF的テーマや描かれた事象にあまり興味がないとしても、その語り口の巧みさで、いつしか物語の中にぐいぐい引っ張り込まれてしまう。
しかも、SF作品としての科学的な正確さや、知識の量、アイディアの新しさの面でも、日本はおろか、世界のSFの中にも比肩するものが少ないぐらいなのだ。
かえすがえすも残念なのは、『虚無回廊』の続きが、もう読めなくなったことだ。
まさかと思った『日本沈没』の続編が、谷甲州との共著ではあるが刊行されたときは、本当に夢のようだった。
『虚無回廊』ばかりは、これは小松自身でなければ続きが書けない作品だと思う。
最後に、小松作品の中で、今こそ読まれるべき小説は『首都消失』だと思う。3.11ののち、日本の国家機能が危機にさらされている現状は、小松がとっくの昔にこの作品の中で、あますところなく描いている。
あいかわらず、現実は小松作品の後追いをしているのだ。