聖母、幻視者(米国)を通して苦しみの意味を語る。

2001年7月1日

「・・・・・・・人生に危機はつきものだということが分かっていないのですか。危機も暮らしの一部だと理解していないのですか。あなた達には、安楽で、苦しみのない生活は決して約束されてはいないのです。

苦しみは、生きることの一部であると悟る責任があなた達にはあるのです。楽な道だけを期待できないのです。苦しみも予想して、苦しみと共に人生を生きなければならないのです。

『人は苦しむ必要がない』と言う人がいます。私は言います。-『どうしてですか』と。苦しみが聖人をつくるのだ、と私は言います。苦しみは、神がある人々に、様々な形で求めるものなのです。

すべての者が同じ形で苦しむわけではありません。両親の死で苦しむ者もあれば、子供の死で苦しむ者もいます。言葉や身体的虐待に苦しむ者もいれば、孤独に苦しむ者もいます。一人ひとりには、父なる神が求める苦しみの程度があります。それは目的があってそうされるのです。

神があなた達に苦しみを求められる理由は、あなた達に償い、信仰、そして人生とその目的に対するより明らかな理解への道を提供するためです。そのために懸命に尽くすゆえ、ある者たちはより多く苦しみます。しかし神は、各自が耐えられるものをご存知であり、御自身が最善と感じられることを各自に求められるのです。

生活の辛さ、困難、心配事に対して、たくさんの不平が聞かれます。そう、私はそれが人間の性(さが)であることを知っています。でも、時々私は思います。彼らは不平をもらす代わりに、自分の霊魂と神の栄光のために、すべてをただ捧げることができないのかと。 そうすることは、非常に彼らを助けることになるのです。不平を言うかわりに、祈り、捧げなさい。

あなた達は苦しみの価値を理解しているのだろうか、と思います。良い苦しみ(方)と悪い苦しみ(方)があります。良い苦しみとは、あなたと、あなたの家族にとって最良のことを神に決めさせます。

悪い苦しみとは、不愉快なことに遭遇すると、いつでも不平を言い、そのことを誰にでも語ります。人に語ることで間違った考えを混同させてはなりません。傷ついたときに誰かにそれを話すことは問題ありません。それは普通のことです。そうすることで、苦しみからくる恵みが取り去られることはありません。あなた達はそれに傷つきながらも、それを受け入れるからです。

苦しみは人に語るべきではないと考える人がいます。それは正しくはありません。他の人が愛徳から助けてくれるよう、苦しみを語ってもよいのです。

誰かによって不正にもたらされた苦しみはまちがったものであると理解しなさい。妻への虐待、子供への虐待は神からのものではなく、邪悪なるものからくるものです。

でも神は、あなた達を動かすため、あなた達の生活を改めさせるために、それをお許しになることがあるのです。ですから、神の送られる苦しみの種類を考えなさい。

それは常に、身体、心、感受性を含む苦しみです。それは人から傷つけられる苦しみかもしれません。それは、物、家、あるいは財産を失うことかもしれません。神は個人にとって十分な苦しみの量をご存知ですが、決して苦しみが過多ということはないのです。理解するように努めなさい、愛する子供たちよ。

聖人たちは皆、天国の道は何かしらの苦しみを伴うものであることを認めていました。甘美なる子供たちよ、あなた達もまた、苦しみが一個の霊魂にとって偉大なる賜物となりうるということを悟る必要があります。

あなた達が、神が与え給うた苦しみを受け入れるとき、あなた達は徳を学ぶのです。あなた達は忍耐を学び、剛毅、堅忍、愛徳を学ぶのです。あなた達は、あなた達への神の愛を学ぶのです。あなた達は神が与えた給う苦しみを受け入れ、それから学ぼうと努めなければならないのです。厳しい時はあります、でもそれは過多(厳しすぎる)ということは決してないのです。

さて、わが子供たちよ、今は、あなた達の霊魂のために償いをする必要を再び強調すべき時です。わたし達は、週に一日を、自分の霊魂のために捧げ、自分自身のためにたくさん祈ることをあなた達に思い起こさせるために、しばしばこのことを語るのです。

今の時は、平素の、日常の生活の上の気苦労、仕事で忙しく、また、私は祈りを期待もしています。すべてを祈りとして捧げなさい。一日と共に、あなた達には、主のために働き、主の願われるままに行うための多くの恵みが与えられます。そのような中で、週に一度一日を自分自身のために使うことは一つの恵みであるのです。

今の時、助けを求めて天使、聖人に祈りなさい。邪悪なるものが、罪である快楽(楽しみ)をあなた達に差し向けるとき、その気まぐれに抵抗するための必要な勇気と力を与えてくれるよう、保護の聖人に祈りなさい。もしあなた達が、そう彼らに願うならば、彼らはあなた達を防御し、囲み、護ってくれるのです。

聖人と天使は、あなた達が助けを求めるのを待っているのです。あなた達が、私に対してするように、あなた達は、自由意志によって、求めることをしなければならないのです。聖人、天使たちがあなた達を助けてくれるよう祈りなさい。

愛する子供たちよ、依然として、その祈りが人のためのものだけで、自分自身のためには祈らない者たちがいます。それは愛徳よりなされていることかもしれませんが、神はまた、あなた達が自分自身のために祈り求めることをも望んでおられるのです。それは必要なことです。そのことで、他人の恵みが減じることはないのです。それは保障します。」



聖母:

「・・・ 自分が多くの問題を抱えているので、天主が自分のことを良く思っておられないと感じている人がいます。彼らが考えている問題とは何でしょうか。そう、あるものは本当に問題です。ある者は病気、ある者は家族の不和、ある者は経済的問題、ある者は感情的問題です。ある者は非常に複雑です。ある者は大変単純です。では、なぜこれらの問題が生じることを天主は許しておられると思いますか。なぜあなたはそうなり、他の者はそうならないのでしょうか。確かなことは天主だけが御存知です。けれども、幾つかの理由をあなたが知るのを助けてあげましょう。

ある者にとって問題の理由は、地上での十字架、煉獄的苦しみを苦しむのを励ますために許されています。ある者は天主に立ち帰るため、人生において天主を思い出すために十字架を受けています。ある者は救いのための聖寵で他の人を助けるために十字架を受けています。

また別の者は地獄の悪魔によって扇動された男、女、子供の残忍さによって、天主からではない十字架を受けています。最悪の十字架のある者は人々によって人類に課されていますが、それはより大きな善や聖寵や祈りのために天主から許されています。その結果は天主からすべての者への罰であり、あるいは罰をもたらします。そのような懲罰は元々人間の手によって始まりますが、天主から許され拡大されます。

天主があなたに担うことを許される十字架は極めて個人的なものですが、天主は誰をも愛しておられ、特に自分の十字架を良く担う者を喜ばれます。ですから、あなたが持っている十字架が一つであろうと二つであろうと、天主があなたのことを良く思われていないと考えてはなりません。むしろ反対に、天主が許された十字架を受け入れ、担っているあなたを天主はとても愛しておられます。

人々が抱えている他の問題は、何事も一生懸命に取り組めば、完全になり正されるだろうと考えていることです。けれども、いつもそうなるとは限りません。たくさん祈っても癒されず、仕事は安全ではなく、赤ちゃんは良くならないということを人々は知りません。『私たちはたくさん祈ったのに、どうして天主はこのままにしておかれるのか。問題がなくなり、この人は癒されないのか』と彼らは言います。私の子供たち、そうなることがいつも天主の計画とは限りません。ただあなたがあれこれ望んだからといって、それを天主が望まれるわけではありません。