霊魂について
2010/10/27 12:53:36 心と体
幻視者(米国)

2000年11月1日

聖主:

私は、地とその民の上に支配権を与えられている聖子である。私は永遠より、永遠の御父の聖子である。一人の婦人から生まれたが、私は依然として聖子である。けれども、今や御父が創られたすべての被造物のように絶えず肉体と霊魂をもっている。最初の者から最後の者まですべての人間は御父によって霊魂を伴ったものとして創られたので、私たちは天国に歓迎することができる。アダムとエワ(イブ)の前は、霊魂のある被造物はなかった。彼らは霊魂を伴った最初の天主の被造物であった。霊魂をもってこの世に生まれてくるのは大変な特権である。なぜなら、それは天国で天主と共にいるために必要な要素だからである。

一部の科学者が、進化は人間の生命の進歩の手段であると論じているのを耳にするのはとても興味深い。しかし、彼らのうち誰も人間に固有の生命次元、すなわち霊魂のことを考えていない。ある科学者は生命を作ろうとしている。ある科学者は生命は単なる染色体やDNAの操作に過ぎないと信じているが、人間の命は人類によっては創造され得ず、天主自身によってのみ創られた特別な賜をもっていることを理解していない。それはもちろん、霊魂である。霊魂なくしてすべての被造物は単なる被造物にすぎない。それは人間と似ているが、被造物にすぎない。

わが子らよ、今度は、一部の科学者がクローン人間を作ると決めたことについて話そう。そう、その前に作った羊や牛や山羊のように、人間のクローンの実験から学ぶことだろう。天主は憐れんでこのクローン被造物に霊魂を与えるだろうかという疑問がわくだろう。それは天主のみぞ知ることだが、もし霊魂を与えない方を天主が選ぶとすれば、その惨めな被造物は霊魂を持たないので人間以下のものとなるだろう。霊魂は被造物を人間たらしめる、人間の歴史において大変特別な賜である。

地上に生きる人々が霊魂を持っていることを思う人は少なく、ほとんど忘れられている。天主の一息ですべてが創造されて存在するに至ったことを人々は忘れている。天主の承諾の一息でどの子供も霊魂が現存し、天主の形と似姿に創られる。各人に動物のような低い水準ではなく、人間の状態をもたらしているのはその人の霊魂なのである。
動物は多くの人から愛されてはいるものの、人間と同じ水準で生きることはできないし、そうなることはない。動物にはできない。動物は霊魂を持っていない。

動物とその場所について話そう。すべての種類の動物は霊魂を持っていない。犬、猫、鳥、馬、すべて霊魂はない。けれども、天主はすべての動物に、世話をされたのと同様な仕方で反応する特別な精神的能力を授けておられる。だから、もし犬や猫が愛され、養われ、病のときに看病してもらえば、その動物は特別な愛と感謝を示して世話をしてくれた者に同じ量の反応をするのだ。

一方、悪く扱われれば動物からの反応はないと言えよう。この相互的反応能力は天主による人間への慰めの一形態として与えられている。人間は天主への愛徳のうちに自分の動物を愛し、天主は人間を助ける特別な賜として動物を与えておられる。動物が世話し、愛し、相互的に反応する度合いは、人間が愛し世話した度合いによって与えられるのだ。このようなわけで、天主は人間の愛と注目を体験し、自分自身もその愛に反応したすべての動物たちに一つの特別な場所を持っておられる。(管理人:これは動物が死んだ後の場所のことを指しているものと思われる。動物には霊魂がないので天国や地獄には行かない。天国には天国用の動物がいるのかもしれませんが、管理人は天国の動物についての幻視者の記述を、現時点では、読んだことはありません。)

今日の地球では命の重みがますます軽くなってきているので、命と霊魂の状況をよく考えなければならない。殺人、戦争、自殺はたくさんあるので、毎日普通に死んでいく者の数はより多くなっている。ああ、そうだ、一日に死ぬ霊魂の数は天主により15万5千人とされてきた。今日、その数は、人間の価値の欠如と、戦争のような状態や無差別殺人のような大きな出来事に人々が巻き込まれていることで増えている。数は増えてきている。一日の死の数は増えてきている。一日の堕胎の数も増えてきている。母の胎内にいる人間と各年齢の人間の両方合わせた一日に死んでいく人の数はほとんど倍増してきている。これは堕胎が合法化され、すぐに使える武器のような大量破壊兵器が作られ、用いられ、多くの者に普及することで漸進(ぜんしん)的に悪化してきている。人が生きるか死ぬかを決めるのは依然として天主であるが、ひどく負傷した人となった苦しみは極めて大きいので、死んでしまった方が良い場合が多いのである。

日々、大変多くの者が死に、そのほとんどが準備していないので、わが御母は彼らが救われるように聖寵を探している。先月、全く予期せず準備せずに死ぬ霊魂を救うために、御母がお前たちに助けを頼んでいるのはそのためである。どの年齢であれ、命を失うことは大きな悲劇である。天主が適当と思われるときに、人の命が取り払われるということを世は忘れている。

世がもっと安定していたときから、かれこれ40年かそれ以上たっている。第二次世界大戦とそれに続く戦争中でさえ、ある程度の安定があった。けれども、今や殺人はもっと多く無差別となっている。この時代の終わりに近づいてきているので、天主はこのことを許容されておられる。

この最後の年月について記したヨハネの黙示録を注意深く読むことを私はお前たちに望んでいる。今や時はますます近づいてきたので、それはお前たちにも更に明白になる。これが聖書の手法である。時が近づくと、そのメッセージは明白になる。今やそれはヨハネの黙示録について当てはまる。それを注意深く読み、今やお前たちすべてにその言葉が当てはまることに気づきなさい。多くが啓示されてきていることを見て更にわかるだろう。私たちはこれをお前たちのためにしたのだ。終末が近づいて目を開けてもらえるわけだから、こういうことを啓示してくれている天主に誉れを帰しなさい。天主がそれをすべて書き記したのだから、ヨハネの黙視を通して天主が語っていることを今や理解しなければならない。

命は特別な賜である。しかし、霊魂の賜は命以上である。霊魂を持った人間各人はその霊魂の賜について天主に対して自分の行為を説明しなければならない。誰もそれはできないが、死んだ人だけがそうすることができる。あらゆる年代のすべての者は、死んだら私の前に立たなくてはならず、その裁き、私審判を受けるとき、自分の霊魂の責任について説明する。

霊魂があることを知らなかったり、信じていなかった者たちは、その私審判のとき、事の真実に気づく。多くが死に対して準備していないのはこのためである。多くは憐れみを請い、そして、多くの者には憐れみが与えられる。他の者には憐れみは控えられる。なぜだろうか。それは彼らが抵抗し、否定したためである。こうして更に多くが地獄へ、滅びへと日々落ちていく。彼らには天主と霊魂を理解するのは恐るべき展望である。彼らが知ることを拒んだために地獄が自分の場所となったと知ることも恐るべき展望である。彼らは信じないことに決めていた。彼らはサタンが霊感を与えたとき地獄に生きることを選んでおり、だから、サタンは彼らを自分のものだと主張するのである。

命、死、審判、天国または地獄の真相は、生きているときより死んだときの方がより困難なものであるが、それは深く考え、黙想しなければならないものである。真実の賜が与えられていることを自覚すれば、自分の霊魂を準備できる。人生とやがて来る死に備えなさい。今の時代は誰一人として人生が続く保証はない。誰もが備えなくてはならない。

準備ができたら、悪から安全を保てるように自分の霊魂を私に与えなさい。そう、お前の霊魂の安全を保つ責任を私は受け入れる。そう、生活を正し、苦行をし、償いを求め、すべてをしなければならないが、安全を保つため、また、お前に対する憐れみ深き私の助けの保証として、私にお前の霊魂を与えなさい。わが子らよ、お前たちのことを愛しているから、私はこの賜をあげよう。