2023年度前期放送のNHK連続テレビ小説、「らんまん」が今週末で終幕を迎えます。
小学校中退で、なんと東京大学の植物学教室の門をたたき紆余曲折、植物学者となった牧野富太郎(ドラマの中では、槙野万太郎)をモデルとしたこの小説、寿恵子役の浜辺美波さんなど、心持ちの良い人が数多出演していて、ドラマを観た後は、心地よい朝をスタートさせてくれました。
さて、ここでは本筋から少し離れて、鉄道関係のことで、ドラマを観ながら思ったことを書いてみたいと思います。
明治維新後、新政府は文明開花の名のもと、世界に目を見開いて、各国から学問や芸術、産業技術などを学び、吸収しようとしました。
その時のお手本とした国は、当初、英米が主流でした。
米国コーネル大学へ留学し、東京大学植物学教室の初代教授である田邊教授は、英語で講義し、バイオリンをたしなんでいました。
明治5年に新橋〜横浜間を開通させた鉄道はと言えば、こちらは米国でなはなく、英国でしたが、英国の技師たちに全面的におんぶに抱っこでつくられました。
しかし、田邊教授が失脚し、つぎに植物学教室の教授職に就いたのは、ドイツ留学から戻ってきた徳永教授です。
植物学では、「観察」をテーマにしていた田邊教授時代から、ドイツ留学でし入れてきた徳永教授の学問対象は「分析・考察」へと変わっていくのでした。
蒸気機関車づくりにおいても、同様の英国型からドイツ型にお手本が変わり、大正時代の国産SL、8620型へと発展していったのでした。
(イギリス ノースブリティシュ社製 1904年 モデルは珊瑚模型製)
(ドイツ ベルリン機械製造社製 1911年 モデルは珊瑚模型製)
(日本 汽車製造等 国内各社製 1914年 モデルはトビー製)
8620型は、ワルシャート式弁装置付き、加熱式から飽和式へとパワーアップも図られました。
植物学と蒸気機関車の製造。何か、とても似ている。
というか、国を挙げて、政治制度など全てがドイツをお手本とするスタイルに変わっていったので、当たり前です。
それから、寿恵子が渋谷の街の将来性に賭け、関東大震災の災害からの復興の過程で現在に繋がっていることを描いていたことも興味深く感じました。
私の住んでいる世田谷区は、三軒茶屋の商店街、千歳烏山の寺町など、関東大震災の災禍の後下町から移り住まわれた人々が造ったことは、小学生の社会科でもしっかりと教えられました。
小林一三と五島慶太のモデルと思しき二人が、渋谷の寿恵子の料亭で会話しているシーンから、役者さんは少しカッコ良すぎるような気もしますが、新しい街づくりの夢を語っており、私鉄電車ファンには、興味深く観ることができました。
万太郎は終世、フィールドワークと標本の収集、新種の発見、図鑑の製作を続けました。
今主流となりつつある鉄道模型は、システマチックで細密なプラスチック製の製品、機能的にもDCCにより、各種のギミックが加えられ、よりリアルな物へと進化しています。
それと比べて、私の作ってきた伝統的な真鍮板やペーパーで車体を作ることが主眼の模型は、時代遅れとなりつつあります。
しかし、もう長いこと進んできた道、槙野万太郎博士の業績を思いつつ、これまでのスタイルで模型づくりを作り続けていきたいと思います。