関ケ原合戦以降の徳川と豊臣を「協調路線」とする説を最近目にしたが、これは、徳川と豊臣に拮抗する、とか同列の「武家」と考えた前提なら、どうなんだろうとちょい疑問。
少なくとも家康は豊臣家に潜在的緊張を抱いたからこそ、自己を頂点とした軍事的ヒエラルキー体系とは別に置いていただけで、秀頼が徳川と同列の「武家」であることを前面に押しだしたならいつ衝突してもおかしくなかった。
いいかえれば秀頼が徳川「武家」に対する「武家」を前面に出していなかったのは、慶長16年の秀頼上洛の時、秀頼が家康の誘いや同意があって、初めて武家行列を編成して京都に出向き得たことに象徴されているかと。
その行列では「武家奉行」と言われた片桐且元が他の大身とは別に、独自の部隊を構成しているは象徴的光景かと。僕もたびたび指摘してました諸大名が秀頼と交際し続けたことも、それは秀頼が、家康と拮抗する武家としての主君から、とする必要はなにもないとも。
以上を考えれば、衝突の導火線の一つが「武家奉行」の且元兄弟の暗殺未遂事件、そして大坂前夜の大坂が浪人を大量に雇い始め、たことに対することだったこと。
つまり、豊臣が武家に特化し、自己を中心としたヒエラルキーを模索し始めたように見えたことに家康が不信感をいだいた、という筋かと。
単に同レベルの武家として協調関係などと言っていたら、なぜ大坂の陣が起こったのか。
大坂の陣は、当初は、家康が秀頼を自己のヒエラルキー体系に位置づけようとしたことが目的だったこと、がよく理解できないでしょう。そして秀頼抹殺の強硬派が秀忠だったことも重要でしょう。
ところで、当時、駿府や江戸には見られない、年頭の勅使派遣や公家の惣礼、京都の有力町人(おそらく大坂のも)の年頭御礼が大坂ではあった。史料では見当たりませんが大阪城出入りの御用商人や町人も確実にいたでしょうね。
そして畿内の寺社との関係。摂関家としての武家の豊臣家には、徳川家中心の世界、とか体系が大坂城を中心に確実に存在していたと。
たからといえって、これが笠谷和比古さんが提唱する二重公儀体制にはなりえない。なぜかといえば、当時の公儀は天下人の家康、という実力者を磁極として結集した領主連合を指すから。
当時の秀頼は独力で手伝い普請すらできないわけですから大大名はじめ武家の磁極ではありえない、つまり公儀たりえない、ということ。
公儀は百性など民衆の指示があってこそ成り立ちますが、当時、豊臣を指示してた民衆は、せいぜい大坂や京都周辺に限定されるのでは。
そもそも論、「協調」って文字通りいけば、互助的なものな気もするけど、家康は秀頼の後見人とか義理の孫としてつどつど後援したけど、秀頼はなにか徳川を支援したっけ?政治経済的に。かなり片務的な気も…
だから支援しているのに弓引かれれば怒るのは、まあ僕も同じかな。家康の気持ちもよく分かる気も
…
なので、最初に書ことにかければ、別系統、とか別枠、くらいの言い方が適当かなと(´(ェ)`)