注)ここで、アジールというのは「身分(国家的なり社会的の)より自由な領域」「世俗ないし日常からの逃避場所としての居場所」くらいの意味で、それらと置き換え可能かと思うので「無縁」という言葉を併せて使ってます「匿名性」」や「不特定多数性」については、例えば黒田日出男氏の「こもる・つつむ・かくす」(同氏『王の身体 王の肖像』(ちくま学芸文庫)を読み個人的に感じたことのアナロジーにより「無縁」との関わりを考えてます。もしかすると誤読かもしれませんが、まあまあ。
1,匿名性や不特定多数性ゆえ、投稿が誤解や曲解を生み本人が全く意図しない結果、ついには事件までをも招く、というSNSのデメリットは、実社会以外でのかけがえのない「居場所」としてのアジール、としての性格もあるだろうSNSのメリットに抵触するよな、とかコンプラの厳重化にしたがって実はSNSも実社会化(世俗化、日常化)している側面もあるんだよな、とか「無縁」の世界としてのバーチャル空間の今後の存立はいかに。掛け替えのない「居場所」が崩壊か。。。(居場所の理解は、阿部真実氏『居場所の社会学』(日本経済新聞出版社、2011年)、等というのが素朴な疑問というか感慨。
2,織田信長、豊臣秀吉そして徳川といった近世的権力、あるいは幕藩権力のアジールへの介入、ひいてはアジールは幕藩権力のもとで存立し得たという近世と、「無縁」の場としての側面もあったはずのSNSが、社会や国家権力の介入の深まりにより、実社会との区別、つまり「無縁」性が曖昧なっていく、にという現在と近世は同一、ではないけどまあまあなんとなく似ている風には見えるかな、くらいの意味で考えてみたり。
3,近世にみられた権力側内部に存在するアジール=「無縁」性、例えば氏家幹人や笠谷和比古が明らかにした、武家屋敷のアジール性を前近世と近代以降、特に現在の狭間にあった現象としてどう位置づけるのかな、とか。(氏家幹人氏『江戸藩邸物語』中公新書、1988年、笠谷和比古氏『近世武家社会の政治構造』吉川弘文館、1993年)
4,SNSをアジールと見立てた時に、近世と現在の大きな相違点は、現在は、国家的なりそれに准ずる権力が、例えば政治家が上のような性格も持つSNSに、ある意味では絡み取られ、時には炎上、弁解、謝罪したりしている、という点。この事態は近世と現代の時代の規定性とか国制の相違を良く表している、とかそれが背景なのかな、などとつまらぬことを。そして社会的権力としてのSNSの行方はいかに、というのは構図…。
などと、今朝ニッポン放送でゲームのプラットフォ―ム運営者の方のお話しを聞きながら頭に駆け巡った話しを箇条書きで。日本近世史を学ぶ私の最近のテーマに沿った話題、というか関心です(;´・ω・)
追記
なお、日本の歴史学におけるアジールや無縁についてはなによりも網野善彦氏『無縁・公界・楽 増補』 (平凡社ライブラリー) 文庫 、1996年)が必読かと。近世のアジールについては、いろいろありますが、差し当たり夏目琢史氏「近世日本における「無縁」「公界」「楽」」(『国士舘人文科学論集』第5号、2024年)の整理を参照ください。ただし、私の「無縁」の考え方は、社会学や教育学などの研究状況なども意識しておりますので、当然、差異はあるかと。また日本の歴史学からの中世や近世一揆とSNS民を「連帯」に着目して類似性を指摘した重要な研究に呉座勇一氏の『一揆の原理~日本中世の一揆から現代のSNSまで~』(洋泉社、2012年)がありますので併せて参照を。なお、現代的な「無縁」の用例は差し当たり、石川結貴氏『ルポ 子どもの無縁社会』(中公新書ラクレ、2011年)、宮本みち子氏『若者が無縁化する』 (ちくま新書、2012年)を参照ください。後者二書にみえるよう、「無縁」社会は我々の日常の隣にあり、老若男女だれでも出入りする可能性のある社会であることを喚起します。