多摩郡砂川村(石高2,016石、現立川市砂川町ほか)の小林家。

この家は元は伊勢国の津藩領出身。延宝年間(167~~1681)に砂川村に移住しました。

 

小林家七代紋右衛門は国史などの本を収集。たいへんな蔵書家で家中に本があふれていたそうです。

のち紋右衛門は本屋を開業します。この本屋の営業形態には不明な部分が多いのですが、多摩郡熊川村(現東京都福生市)の石川家の日記には文政3年~天保9年(1820~1839)に「砂川本屋」の廻村を受け、「里見軍記」や「朝鮮軍記」等を借用していることが見えます。

 

この「砂川本屋」は、江戸当時の一般的な村における商売の様子を考慮するなら小林家で可能性が高いと思いますし、これも当時の本屋の状況を考慮すれば、小林家の営業形態は、少なくとも貸本業の比重が高かったと思われます。仮に、「砂川本屋」が小林家でなかったとしても、砂川村には本屋が二軒以上存在していたことになりましょうし、砂川村の本屋は居住村はもとより、周辺地域の読書へも影響を与えていたことは確実といえます。

 

 

紋右衛門は書を好んでいたこともあり、本屋の営業とともに、村の子どもに読み書きを教えていたそうで、その門弟は200人を超えたとか。一代でのこの門弟数は少なくはない数字でしょう。紋右衛門の地域の学問に果たした役割は大きかったというべきでしょう。なお、当時は現立川市の一方村である柴崎村(現立川市曙町や栄町ほか)普済寺の心源庵でも寺子屋教育行わてました 現立川市域での学習熱の高まりも窺えます。

 

 

紋右衛門は、天保12年(1841)没します。以上の紋右衛門軌跡からは、化政期に花開く書物をめぐる大衆文化が多摩地域にもしっかりと根付き始めたことを読み取ることができるでしょう。

 

参考文献

小林家墓誌、小林文雄「近世後期における『蔵書の家』の社会的機能について」(『歴史』76,1991年)