関ヶ原合戦後、そして家康将軍任官(慶長8年)、秀忠将軍継承(慶長10年)後も、徳川の支配が全国くまなく浸透したわけではないことは、周知のことかと思います。それはもちろん、関ヶ原合戦で東軍勝利に大貢献し、大封をもって主に西国に領地を与えられた、豊臣恩顧の大名たちや、大坂の豊臣秀頼の存在があります。

  そんな、関ヶ原合戦後、江戸や駿府を中心にした徳川方の勢力範囲はどの辺まで?ということを探るのに便利なのが、慶長16年に実施された禁裏普請へ参加した武将の名簿「禁裏普請帳」という史料。これには参加した250名余の武将の名前と石高が列記され、当時の大名や武将の石高を知るには非常に便利。これをもとに『寛政重修諸家譜』で調べると、当時の大名・武将の石高や居所・官位の一覧表ができるわけです。

 また、『禁裏御普請帳』の異本「家康之御代大名衆知行高辻」(国文学研究資料館蔵 阿波蜂須賀家文書)を見ると、官位が従四位下・侍従か石高が十万石以上であるか、それ以下かにより、受け持ちの持ち場が分かれております。

  例えば、従四位下・侍従や10万石以上の大名は築地普請、それ以下の大名・武将は「地下」普請を担当しております。つまり、将軍を中心とした当時の家格制の一端を窺うことができるわけです。加えて、「駿府衆」「江戸衆」など家康付、秀忠付の家臣が一目瞭然なこと、大坂の豊臣家臣の名前や石高の記述もあり、当時の政治史研究には欠かせないものです。

  ところで本題。この史料を見て、まず、徳川譜代の大名の居所の東と西端を探すと、東は、陸奥磐城の鳥居家(10万石)と、上野国館林の榊原家(10万石)、西は伊勢桑名の本多家(10万石)、近江彦根の井伊家(18万石)。さらに、西は近江や山城、摂河泉や備中に幕領や旗本領が散在。佐渡や石見など主要鉱山を支配。すると、この範囲が、徳川の直接の支配範囲となりましょうか。

  豊臣政権下の関東領国時代から比較すれば、相当、勢力範囲は拡大しておりますが、意外なほど、狭いんですよね。しかも間間には外様大名の領地もありますから、面の支配ではない。これが現実なのですね。もちろん、全国にいる大名は徳川家の軍役体系に入っていたことは、大坂の陣を見れば一目瞭然。徳川の命令には容易に逆らえないのも事実だったのです。しかし、これは、あくまで大名たちの自主的な服属であることに留意しなければならないでしょう。ここに徳川の「家」の者である譜代と外様の違いがあります。  

  さて、そうした中で、特に支配範囲外の要所に置かれた榊原家・鳥居家・本多家、井伊家の4名の大名たちは、10万石単位の石高です。なぜ、特に、この4大名に十万石以上を与えたのか。これらの大名は、上記の徳川勢力の話しを踏まえると、支配範囲外の外様大名と対峙する形になりますから、万一の有事の際は、相当の軍事力が必要となります。

  したがって、家康は、これら4大名に、軍事力確保の関係から他の譜代には見ることができない、大封を与えて、境界線の守衛の役割を与えた、とみるべきでしょう。これらの家が、なにより徳川家の成長を支え続けた、武功の家であることも忘れてはいけないと思います。

  10万石以上の譜代大名は他にもいますが、「禁裏普請帳」で、上記した10万石以上、あるいは従四位下・侍従の公家成大名ととも同格と扱われ、築地普請担当者となっているのはこの4家のみとるところも興味深いところです

  なお、家格の話しについて。徳川の全国支配が確定する寛永以降になると、譜代大名は先祖の由緒をもとに高官に任命される(井伊家や保科家、酒井家)が家がある一方で、才覚(と家柄)により老中や京都所司代になると従四位下・侍従に位階を所持することになり、国持大名などと同格の位階となります。

  しかし、まだ、混沌とした政治状況の慶長期には、譜代家の由緒が確立する以前であり、しかも、幕府の要職にいることが(駿府や江戸の年寄(老中)に10万石の領地をもつものはおりません)家格の高下に直結する時代ではないのです。そして、なによりも武功の家であることが重んじられる時代であり、そうした家々が家格制の上位いたともいえるのかもしれません。

  戦国以来の「実力主義」(小宮木代良『江戸幕府の日記と儀礼史料』)の時代。いまだ実際に戦争が起こりうる時代ならではの話しであります。