慶長8年(1603)千姫の大坂城入輿のあと、慶長10年以降に、千姫附属となった渡辺勝(かつ)。なぜ、渡辺がこの任に選ばれたかというと、それは渡辺しか適任者がいなかったからかと思われる。なぜなら、渡辺の姉は実は有名な二位局(「寛政重修諸家譜」)。局は秀吉や淀殿の申次を務め、のち大坂の陣の直前、大蔵卿局とともに駿府に事情を話に下向した人物(「駿府記」)。当然、大坂城内の内情を熟知している家康のことであるから、渡辺が二位局と姉弟の関係であることを前提に、千姫に付けた可能性の蓋然性は高い。
家康が渡辺と局に期待したことは、家康にとって義理の孫である秀頼を中心にした大坂城の用立てになることを考えたことと、一方では、大坂城内の事情を従来とは別のルートから聴取するためであったと考えてもいいのではないか。 前者に関しては、蜂須賀家の書状案によれば、蜂須賀至鎮は、渡辺の依頼で炭五荷を大坂へ送っていることを見れば、渡辺は奥向の管理的な仕事をしていたと推察される(蜂須賀家文書「草案」)のち、元和6年(1620)、後水尾天皇と徳川和子の結婚に際し成立した禁裏附の先駆的なものとしても興味深い。
大坂夏の陣中、家康は、二位局を大坂城から脱出させ助けている。その橋渡しになったのが渡辺なのかもしれない。もちろん、渡辺家は陣後は徳川家の旗本として存続する。こうした、微々たる事実を丁寧に追っていく仕事も、当該期の政治史研究には必要ではないだろうか。
参考文献 柏木輝久『大坂の陣 豊臣方人物事典』