以前にも書きましたが、慶長8年(1603)千姫の大坂入輿のあとに千姫に付けられた渡辺筑後守勝(かつ)。 この人の姉は、実は、この時期では有名な二位局。彼女は秀吉や淀殿の申次を務める重職のもの。また、のち大坂の陣の直前、大蔵卿局とともに駿府に弁明のために下向した人物。家康は渡辺が二位局と姉弟の関係であることを知っていて、千姫に付けた可能性の蓋然性は高い。 それは、2人が、義理の孫である秀頼を中心にした大坂城の用立てになることを考えたことと、一方では、大坂城内の事情を従来とは別のルートから聴取するためであったと考えてもいいのではないか。実際家康は、大坂夏の陣中、特に、二位局を大坂城から脱出させ助けている。その橋渡しになったのが渡辺なのかもしれない。 もちろん、渡辺家は陣後は徳川家の旗本として存続していきます。こうした、微々たる事実を丁寧に追っていく仕事も、当該期の政治史研究には必要ではないか。もう少し詰めたら,小文でどこかに投稿しようと思っております。またこうした話題を求めている出版社様おりましたら、いつでも寄稿させていただきます。