阿波徳島蜂須賀家文書(国文学研究資料館蔵)には、発給者や宛先は不明ながらも、藩内(国元かな)での、将軍から拝領した領知判物の管理に対する注意書があります。

 

火事の際の運送では奥小姓が付くことや、行列に交じり運ぶなど、わりと具体的な規定が書かれおり、加えて判物は「表ならざるの品」と、誰でも閲覧できるものではないことも示されております。いかに判物(花押が記された文書)が厳格に取り扱われていたのか、言い換えれば、将軍の判物は物神化=将軍そのものを体現したもの、と認識されていたこともよくわかります。

 

ところで、その箇条には、管理する実務者に対し、日頃、朱印状を、「ざつくそ(漢字をあてると、「雑糞」か)」 に取り扱わないように注意書があります。これを見ると、藩内でも、藩内の階層将軍との位置の関係などによって判物への認識が異なることを窺うことができ、大変興味深いものです。

 

大名家で、将軍の領知判物や朱印状が厳格に取り扱われた、というのは、もちろん、一面は事実ですが、単にその説明だけで、当時の判物・朱印状認識や文書管理の実態を説明仕切れるのか、はやや疑問です。寺社や民間での、判物・朱印状関連の史料を見ていると、その疑問は、より膨らむはずかと思います。

 

今後は、判物・朱印状を取り扱う身分や階層などの実態も踏まえた上での判物・朱印状への認識が求められるところです。それは、近世の文書社会をよりよく理解するためには欠かせないはずです。