一次史料でも明らかですが、夏の陣の徳川の上坂の目的は、あくまで大軍を率い、威圧することで秀頼を臣従させることだったことには、改めて注意してよいかと思います。
 
それを踏まえれば、慶長16年の二条城会見をもって秀頼が徳川家、というか秀忠に臣従したとは論理的に成り立ちませんし、家康は豊臣家をあくまで存続させようとしたことは明らかになるでしょう。
 
結果、秀頼は徳川方の豊臣家存続条件を一蹴したために、秀頼の生命を抹殺するしか術がなくなった。大坂の陣の歴史的意義を考える際には、落とせない前提です。